妊娠
「……え?」
悠真の声が掠れた。
莉奈はお腹に手を当てたまま、ゆっくり視線を落とす。
「まだ分かんないけど……でも、生理来てなくて」
風の音だけが響く。
悠真の頭が真っ白になった。
妊娠。
その二文字だけが、脳内で何度も反響する。
「嘘だろ……」
「私だって、嘘ならよかった……」
莉奈は震える声でそう言って、ぽろぽろ涙を零した。
「どうしよう……」
悠真は何も言えなかった。
さっきまで怒鳴っていた感情が、一気に冷えていく。代わりに押し寄せたのは、恐怖だった。
もし本当なら。
もし美咲にバレたら。
会社も家庭も終わる。
全部。
「病院は?」
「……まだ」
「行けよ」
反射的に強い口調になる。
莉奈はびくっと肩を震わせた。
その反応を見た瞬間、悠真はハッとする。
腕に残った赤い跡。
泣き腫らした目。
自分が追い詰めた。
そう思った途端、妙な罪悪感が胸を刺した。
「……悪い」
莉奈が顔を上げる。
悠真は乱暴に髪をかき上げた。
「とりあえず、今日は送る」
その一言だけで、莉奈の表情が変わった。
まるで捨てられた犬が、もう一度餌を貰えたみたいに。
「……うん」
車の中は静かだった。
莉奈は助手席で、小さく腹部を撫で続けている。
その仕草を見るたび、悠真の心臓は嫌な音を立てた。
本当に、自分の子なのか。
いや。
時期的には合う。
考えたくないのに、現実感だけが増していく。
信号待ち。
莉奈がぽつりと呟く。
「……怒ってないの?」
「は?」
「昨日みたいに、もう会うなって言うかと思った」
悠真は黙った。
言えるわけがない。
もし妊娠が本当なら、莉奈を切り捨てるなんて無理だ。
「……今は、そんな話してる場合じゃないだろ」
その瞬間。
莉奈が少しだけ笑った。
嬉しそうに。
安心したみたいに。
マンション前に着く。
莉奈は車を降りる前、シートベルトを外しながら小さく言った。
「ねぇ」
「……何」
「今日、来てくれる?」
悠真は眉を寄せた。
「今から?」
「一人だと不安……」
弱々しい声だった。
昨日までの執着じみた圧とは違う。
守ってほしい、という顔。
悠真は舌打ちしかけて、やめた。
「……少しだけな」
莉奈の目がぱっと明るくなる。
その反応に、悠真の胸が妙にざわついた。
部屋に入ると、莉奈はすぐ悠真の服を掴んだ。
離れないように。
「大丈夫だから」
悠真はそう言いながら、頭を撫でる。
まるで恋人みたいに。
いや。
もう、とっくにそうだった。
莉奈は悠真の胸に額を押し当て、小さく呟く。
「怖かった……」
「……」
「一人で考えてたら、消えたくなって」
奈々の顔が脳裏をよぎる。
あの日、電話を切った夜。
泣いていた声。
悠真は無意識に莉奈を抱き寄せていた。
「変なこと考えるな」
「……うん」
「ちゃんと俺がいるから」
口にした瞬間、自分で驚いた。
だが莉奈は泣きながら笑う。
「嬉しい……」
その夜。
悠真は美咲に、“会社のトラブルで遅くなる”と連絡を入れた。
返信はすぐ来た。
『無理しないでね』
胸が痛む。
それでも。
悠真は帰れなかった。
ソファで眠る莉奈に毛布を掛ける。
すると莉奈が薄く目を開け、悠真の袖を掴んだ。
「行かないで……」
悠真はその手を振り払えなかった。
静かな部屋。
絡みつく体温。
依存。
罪悪感。
壊れていく感覚。
全部分かっているのに。
悠真はもう、自分から離れられなくなり始めていた。
そして翌朝。
洗面所で一人になった莉奈は、鏡を見ながら静かに笑う。
その手には、まだ袋から出したばかりの妊娠検査薬。
当然、線は出ていなかった。
莉奈はそれをゴミ箱に捨てる。
代わりにスマホを開き、昨夜の悠真との写真を見つめる。
優しく頭を撫でる手。
抱き締める腕。
全部、自分だけのものみたいだった。
「……やっと、こっち見た」
莉奈は嬉しそうに呟いた。
悠真が帰ったあとも、部屋にはまだ体温が残っていた。
ソファの皺。
脱ぎっぱなしのスウェット。
テーブルに置かれたコンビニの温かいお茶。
その全部が、莉奈の胸を満たしていく。
昨夜までの不安が嘘みたいだった。
悠真は優しかった。
帰る前も。
何度も頭を撫でてくれた。
「ちゃんと病院行けよ」
「何かあったらすぐ連絡しろ」
「一人で抱え込むな」
その言葉を思い出すだけで、頬が緩む。
莉奈はソファに座り込み、スマホを抱き締めた。
画面には、昨夜盗み撮りした悠真の横顔。
眠そうに煙草を吸う姿。
少し疲れた目。
それすら愛しかった。
「……好き」
ぽつりと呟く。
最初は、ほんの少しだった。
優しい義兄。
お姉ちゃんを大事にする人。
笑うと格好良くて、頼りになって。
でも知ってしまった。
悠真は完璧じゃなかった。
嘘をつく。
浮気をする。
弱くて、最低で、自分に甘い。
なのに。
だからこそ、欲しくなった。
自分だけを見てほしいと思ってしまった。
莉奈はスマホを開く。
悠真とのトーク画面。
少し前まで、自分ばかり送っていたメッセージ。
既読無視。
未読。
素っ気ない返事。
それが今は違う。
『起きた?』
『ちゃんと食べろよ』
『病院いつ行く?』
短い文。
でも、それだけで嬉しい。
莉奈はすぐ返信する。
『起きた』
『会いたい』
数秒後。
既読。
その小さな表示だけで、胸が高鳴る。
『今日は無理』
『美咲いるから』
その名前を見た瞬間、莉奈の笑顔が少し消えた。
美咲。
姉。
本当なら、自分がこんなことしてはいけない相手。
分かっている。
でも。
莉奈はゆっくり唇を噛む。
——お姉ちゃんが悪い。
心の奥で、誰かが囁く。
だって、美咲は何も気づかない。
悠真が苦しんでても。
壊れてても。
他の女に逃げてても。
何も知らず、“理想の夫”だと思って笑ってる。
私の方が分かってる。
私の方が悠真くんを見てる。
そう思った瞬間、ぞくりとした。
莉奈はそのままアルバムを開く。
保存してある写真。
悠真の寝顔。
車の中の横顔。
隠し撮りした後ろ姿。
増えていく。
どんどん。
指が止まったのは、一枚の写真だった。
会社に送った匿名メールのスクリーンショット。
添付済み。
送信完了。
あの瞬間は怖かった。
もし嫌われたら。
もし終わったら。
でも結果は違った。
悠真は、自分を切れなかった。
妊娠を匂わせた瞬間、全部変わった。
優しくなった。
触れてくれた。
必要としてくれた。
莉奈は堪えきれず、小さく笑った。
「……よかった」
泣きそうな声だった。
その時、スマホが鳴る。
悠真。
莉奈はすぐ通話に出た。
「もしもし?」
『……今、大丈夫か』
低い声。
疲れている。
でも、それが嬉しい。
「うん」
『今日、美咲遅いんだよな』
莉奈の呼吸が止まる。
『少しだけ行く』
その瞬間。
胸の奥が熱くなる。
「……ほんと?」
『騒ぐなよ』
ぶっきらぼうな声。
けれど、昨日までとは違う。
切ろうとしていない。
逃げようとしていない。
莉奈は通話を切ったあと、鏡の前に立つ。
髪を整える。
薄くリップを塗る。
ワンピースに着替える。
恋人に会うみたいに。
そしてふと、自分のお腹に触れた。
もちろん、何もない。
妊娠なんてしていない。
なのに。
その嘘のおかげで、悠真はここに来る。
莉奈は鏡越しに、自分へ微笑んだ。
「大丈夫」
誰に言うでもなく呟く。
「そのうち、本当にできればいいんだから」
その目は、もう完全に壊れ始めていた
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