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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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境界線

「私がお義兄ちゃんと浮気したら、お姉ちゃんと同じくらい苦しくなるのかな」


冗談みたいな言葉だった。

でも莉奈は笑っていなかった。

悠真は苛立ったように息を吐く。

「何考えてるんだ、頭冷やせ」

「冷えてるよ」

「冗談でもそういうこと言うな」

「なんで?冗談じゃないよ」

莉奈はソファに座ったまま見上げてくる。


暗いリビング。

窓の外の街灯だけが薄く差し込んでいた。


「浮気する人って、こういうこと平気なんじゃないの?」

「……お前と一緒にするな」

「どう違うの?」

悠真は答えない。

答えられない。

莉奈は数秒黙ったあと、小さく笑った。

「ごめんね、冗談だよ」

そう言ってスマホを消す。

「写真も消しとく」

「最初から撮るな」

「ごめん」


その謝り方が妙に素直で、逆に居心地が悪かった。

悠真は冷蔵庫から水を取り出す。

「寝ろ。明日美咲にまた心配されるぞ」

その言葉に、莉奈の表情が少しだけ曇る。

「……お姉ちゃんすごく優しいよね」

「そうだな」

「昔からずっと優しかった」

ぽつりと呟く。

「私が泣いてると、いつもお姉ちゃんが助けてくれた」

悠真は何も言わない。

「だから最低なんだよね、私。

お義兄ちゃんのこと好きになるなんて。」

「は?」

莉奈は俯いたまま笑う。

「お義兄ちゃんの事最低だと思ったのにさ。

考えれば考えるほど好きな気持ちに気がついた。

姉妹だから好きなタイプ似てるのかもしれない。

だから…お義兄ちゃんの事、嫌いになれなかった。」


沈黙。

空気が重くなる。

悠真はそれ以上聞きたくなくて、水を一気に飲み干した。

「もう寝るぞ」

逃げるみたいに背を向ける。


その時。

「ねえ」

足が止まる。

「もしお姉ちゃんと出会う前に、私が先に会ってたらどうなってたと思う?」

振り返れなかった。

「知らねぇよ」

低く返す。

「そっか」

莉奈はそれ以上何も言わなかった。


⸻


翌朝。

「お姉ちゃん!見て、この卵焦げてる!莉奈ちゃんが焼いたからだ!」

「もー!文句言わないで食べなさい!」

キッチンにはいつもの空気が戻っていた。

子供たちは笑っている。

莉奈も普通に笑っている。

昨日の夜が全部、夢だったみたいに。


「悠真、コーヒーいる?」

「ああ」

美咲は何も知らない。

当然だ。

妹が義兄に惹かれ始めているなんて、想像すらしていない。


「今日さ」

莉奈がパンをかじりながら言う。

「お義兄ちゃん仕事終わるの遅い?」

悠真が顔を上げる。

「わかんない、なんで?」

「別に!聞いただけ」

 

美咲が笑う。

「莉奈、最近悠真の事、好きすぎじゃない?」

一瞬、空気が止まりかける。

だが莉奈は笑った。

「だって優しいし」

「はいはい」

美咲も冗談だと思っている。

でも悠真だけが笑えなかった。


⸻


昼過ぎ。

仕事中、スマホが震える。

莉奈からだった。


『昨日ごめんね』

続けてもう一件。

『変なこと言った』

悠真は数秒見つめたあと、短く返す。

『気にしてない』

すぐ既読。

そのあと返ってきた文章に、悠真は少しだけ眉をひそめた。


『でも嘘ついた』

『何が』

『冗談じゃなかった』

悠真の指が止まる。


その時、会議室のドアが開いた。

「黒沢さん、部長呼んでます」

「ああ、今行く」

スマホを伏せる。


会議の内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。

資料をめくりながらも、悠真の頭にはずっと莉奈の言葉が残っている。


『冗談じゃなかった』

ただの思い込みだ。

寂しくなっているだけ。

彼氏とうまくいっていないタイミングで、近くにいた男に感情が向いているだけ。

そういうことはある。

悠真は自分に言い聞かせる。

だが、完全には切り替えられなかった。


その言葉の意味を、悠真はまだちゃんと理解していなかった。


夜。

帰宅すると、リビングに莉奈はいなかった。

それだけで少し安心している自分に気づいて、悠真は小さく舌打ちする。


「今日莉奈は?」

「友達とごはんだって」

美咲はソファで洗濯物を畳みながら答える。

「最近元気ないよね」

「失恋したばっかだからだろ」

「それだけかなぁ」


悠真はネクタイを緩める。

「何が」

「なんか変」

美咲は畳んだ子供服を重ねながら続ける。

「前より甘えてくるっていうか」

「お前に?」

「ううん」

そこで一瞬だけ言葉が止まる。

「……悠真に」

悠真の動きがわずかに止まる。

「考えすぎだろ」

「そうかな」

美咲は笑った。

「まあ莉奈、悠真の事大好きだもんね」

冗談っぽい声。

だが悠真は笑えなかった。


⸻


二十二時過ぎ。

子供たちが寝たあと、美咲も風呂へ入っていた。

悠真はソファに座りながらスマホを見る。


奈々からメッセージ。

『今週また会える?♡』

少し考えてから返す。

『金曜なら』

送信。


その直後。

別の通知。

莉奈。

『今電話できる?』

悠真は眉をひそめる。

数秒迷ったあと、通話ボタンを押した。


「何」

『今外』

「は?」

後ろで車の音がする。

『飲んでたんだけど、終電なくなった』

「タクシーで帰れ」

『お金ない』

「友達は」

『帰った』

悠真は深く息を吐く。

「どこいる」


⸻


三十分後。

駅前。

莉奈はコンビニ前にしゃがんでいた。

短いスカートから伸びる足が夜風で冷えている。


「ほんとに来た」

悠真は答えない。

「立て」

莉奈は笑いながら立ち上がる。

少し酒が入っている。

「お義兄ちゃん優しいね」

「うるせぇ」

車に乗せる。


ドアが閉まると、狭い空間にアルコールの匂いが広がった。

「美咲には?」

「友達んち泊まるって言った」

エンジンをかける。

数分、沈黙が続く。

だが莉奈が不意に笑った。


「また浮気相手?」

悠真の眉が動く。

「何が」

「今スマホ見てた時、顔違った」

「気のせい」

「図星だ」

酔っているせいか、妙に距離が近い。

悠真は前を向いたまま言う。

「お前さ」

「ん?」

「最近おかしいぞ」

「そうかな」

「そうだろ」


莉奈は窓の外を見ながら呟く。

「だってお義兄ちゃんが悪いし」

「は?」

「優しくしてくれるから」

その言葉に、悠真は返せなくなる。

赤信号で車が止まる。


その瞬間。

莉奈がこちらを向いた。

「ねえ」

距離が近い。

思ったよりずっと近かった。


「もし私が本気で好きって言ったらどうする?」

悠真は一瞬だけ黙る。

車内が静まり返る。

信号の赤だけがフロントガラスに映っていた。


「……お前、酔ってるな」

「あ、逃げた」

莉奈が笑う。

だが、その目は笑っていなかった。

青信号。

悠真はアクセルを踏む。


心臓が、少しだけうるさかった。

ここまで読んでくださってありがとうございました!

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