秘密
金曜の夜だった。
「今日遅くなる?」
ネクタイを締めながら、美咲が聞く。
「接待。たぶん終電近い」
「そっか。ごはんいる?」
「向こうで食う」
「飲みすぎないでね」
悠真は適当に頷いて家を出た。
エレベーターの鏡に映る自分は、いつも通りだった。営業成績もいい。家庭もある。外から見れば何一つ問題のない男。
地下駐車場へ向かいながらスマホを見る。
『先入ってるね♡』
後輩の奈々からだった。
ホテルの名前も部屋番号も、もう送られている。
⸻
部屋に入ると、奈々はベッドの上で笑っていた。
「遅いです」
「仕事してたんだよ」
「ほんとかなぁ」
甘えた声。
悠真は上着を脱ぎながら笑う。
こういう時間は楽だった。
何も考えなくていい。
責任も、家庭も、父親も全部忘れられる。
奈々が抱きついてくる。
「今日ちゃんと泊まってくれる?」
「無理。朝あるし」
「またそれ」
唇を重ねながら、悠真は適当に誤魔化す。
その時だった。
ブブッ。
スマホが震える。
画面。
『お義兄ちゃん今日接待?』
莉奈だった。
悠真は眉をひそめる。
「誰ですか?」
奈々が覗き込もうとする。
「会社のやつ」
適当に返して画面を伏せる。
『うん』
それだけ返した。
数秒後。
『そっか』
短い返信。
なぜか少しだけ引っかかった。
⸻
一時間後。
ホテルを出る頃には雨が降っていた。
奈々が腕を絡めてくる。
「送ってほしい」
「タクシー拾えよ」
「冷たーい」
笑いながら身体を寄せてくる。
その時。
視界の端に見覚えのある顔が映った。
悠真の動きが止まる。
道路の向こう。
コンビニの前。
傘もささずに立っていたのは、莉奈だった。
一瞬、目が合う。
奈々が気づかず笑っている横で、莉奈だけが固まっていた。
最悪だ。
悠真は咄嗟に奈々の腕を外す。
「じゃ、また」
「えー?」
奈々が不満そうな声を出す。
だが悠真はそのまま道路を渡った。
莉奈は逃げなかった。
雨に濡れたまま、じっと立っている。
「なんでここにいる」
「……友達と飲んでた」
声が変だった。
「お義兄ちゃんこそ」
悠真は舌打ちした。
「接待じゃなかったの?」
返事が詰まる。
莉奈は笑った。
でも全然笑っていなかった。
「最低だね」
その言葉が妙に刺さる。
「お姉ちゃん、信じてるのに!」
「大声出すな」
「なんで?」
莉奈は一歩近づく。
雨で髪が濡れている。
「なんでそんな普通の顔して浮気できるの?」
「……関係ないだろ」
「あるよ」
即答だった。
「家族じゃん」
その言葉に、悠真は少しだけ苛立つ。
「お前に説教される筋合いない」
「じゃあ誰ならいいの?」
莉奈の目が赤かった。
怒っているのか、泣きそうなのか分からない。
「おねえちゃんが知ったらどうなると思ってるの?」
「言うつもりか」
沈黙。
雨の音だけが響く。
莉奈はしばらく悠真を見ていた。
やがて小さく笑う。
「……言わないよ」
「……」
「言えるわけないじゃん」
その言い方が、妙に引っかかった。
悠真は眉をひそめる。
「なんだよそれ」
「別に」
莉奈は視線を逸らした。
「でももう無理かも」
「何が」
莉奈は答えない。
ただ、苦しそうに笑った。
「お義兄ちゃん、思ったより最低だった」
そう言って背を向ける。
雨の中を歩いていく後ろ姿を見ながら、悠真は妙な違和感を覚えていた。
浮気がバレた。
普通なら面倒なのはそこだけのはずだった。
なのに。
莉奈のあの顔だけが、なぜか頭から離れなかった。
──
翌朝、悠真は最悪な目覚めだった。
頭痛ではない。
罪悪感でもない。
莉奈に見られた。その事実だけが妙に引っかかっていた。
「パパ起きてー」
娘に揺すられ、無理やり身体を起こす。
リビングへ行くと、美咲が朝食を並べていた。
「珍しいね、そんな眠そうなの」
「昨日飲んだから」
「接待?」
「ああ」
嘘は自然に出る。
もはや考える必要もなかった。
「そういえば昨日、莉奈遅かったんだよね」
悠真の手が止まりかける。
「ふーん」
「友達と飲んでたらしいけど」
美咲は特に疑っていない。
当たり前だ。
まさか自分の妹が、義兄のラブホテル帰りを見ているなんて思うわけがない。
⸻
昼休み。
スマホが震えた。
莉奈。
悠真は数秒見つめたあと、人気のない非常階段へ向かう。
電話を取る。
「何」
『……今話せる?』
声が暗い。
「仕事中」
『少しだけ』
沈黙。
「昨日のことなら、忘れろ」
『忘れられないから電話してるんだけど』
少し強い口調だった。
悠真は舌打ちする。
「じゃあ何がしたい」
『なんで浮気するの?』
真っ直ぐな声。
責めるというより、本気で分からないみたいな聞き方だった。
「別に理由なんかない」
『お姉ちゃんのこと嫌いなの?』
「違う」
『じゃあなんで?』
悠真は答えなかった。
答えられない。
家庭は大事だった。子供も可愛い。美咲にも不満はない。
でも、それと浮気しないことは別だった。
「お前には分かんねぇよ」
『分かりたくない』
莉奈の声が震える。
『……最低』
そのまま電話は切れた。
⸻
夜。
帰宅すると、莉奈がいた。
ソファに座って子供と遊んでいる。
「おかえりー」
美咲が笑う。
「また来てたのか」
「いいじゃん別に」
莉奈は子供を抱き上げたまま、悠真を見ない。
空気が少しおかしい。
だが美咲は気づいていなかった。
「今日泊まってくって」
「は?」
思わず声が出る。
美咲が首を傾げる。
「なんでそんな嫌そうなの」
「いや別に」
莉奈は無言だった。
⸻
深夜。
子供たちも寝静まり、リビングの電気も消えている。
悠真は喉が渇いて目を覚ました。
キッチンへ向かう。
その途中。
暗いリビングに人影が見えた。
莉奈だった。
ソファに座ったまま、スマホを見ている。
「……何してんの」
「寝れない」
近づくと、画面が見えた。
ホテルの前。
奈々と腕を組んで歩く悠真。
昨日、撮られていた。
悠真の顔が変わる。
「お前」
「撮っちゃった」
莉奈は笑わない。
「消せ」
「やだ」
即答だった。
「何がしたいんだよ」
「分かんない」
莉奈はスマホを握りしめたまま俯く。
「でも……昨日からずっと苦しい」
悠真は黙る。
「なんでかなって考えてた」
静かな声。
「最初はお姉ちゃんが可哀想だからだと思った」
莉奈はゆっくり顔を上げる。
「でも違った」
目が合う。
その瞬間、悠真は本能的にまずいと思った。
「私、お義兄ちゃんが他の女といるの見て嫌だった」
空気が止まる。
「……何言ってんだ」
「分かんない」
莉奈の声が震える。
「ほんと分かんないの。でも苦しくて」
悠真は舌打ちした。
「疲れてんだよ」
「そうかな」
「そうだろ」
自分に言い聞かせるみたいに返す。
莉奈はしばらく黙っていた。
やがて小さく笑う。
「じゃあさ」
「……あ?」
「私がお義兄ちゃんと浮気したら、お姉ちゃんと同じくらい苦しくなるのかな」
心臓が一瞬止まった。
冗談には聞こえなかった。
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