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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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理想の夫

「パパー!」


玄関を開けた瞬間、小さな体が勢いよくぶつかってきた。反射的に受け止めると、息子はそのまま笑いながら腕にしがみつく。


「ただいま」

「おかえり」

奥から美咲の声が返ってくる。キッチンでは鍋が静かに音を立てていて、夕飯の匂いが家全体に染みていた。こういう空気に触れるたび、悠真は一度だけ安心する。ここはちゃんと自分の居場所だと。


リビングでは娘が床に座って絵を描いていた。クレヨンの色が増えていくたびに、紙の中の家族も増えていく。


「パパ見て!」

紙を掲げると、そこには四人の家族が並んでいた。手を繋いで、笑っている。


「上手いな」

「これママ、これわたし、これパパ!」

「完璧じゃん」

娘が嬉しそうに笑う。その横で美咲が少しだけ肩をすくめる。


「ほんとこの子たち、悠真のこと好きすぎるよね」

「嫌われる理由ないだろ」

「そういうとこ」


軽く笑い合うだけのやり取り。何も特別じゃない。特別じゃないのに、やけに壊したくなくなる時間だった。


夕食の途中、美咲が思い出したように言う。

「そういえば莉奈、今日来るって」

その名前が出た瞬間、悠真の箸がわずかに止まる。


「へぇ」

「彼氏とまたうまくいってないみたい」

「またか」

「モテるのに続かないんだよね」


インターホンが鳴ったのは、その直後だった。


「はーい!」

美咲が玄関へ向かうと、すぐに明るい声が響く。

「お邪魔しまーす!」


莉奈が入ってくる。白いニットに細身のデニム。少し乱れた髪と、疲れた顔の中に残る無防備さ。人の家に来たというより、最初からそこにいたような馴染み方をする。


「子供たちー!」

「りなちゃん!」


一気に空気が柔らかくなる。莉奈はそのまま娘と息子を抱きしめ、笑い声を広げた。

美咲が苦笑する。


「ごはん食べるでしょ?」

「食べる。今日ほんと最悪だった」

「彼氏?」

「うん」


莉奈はため息をつきながら椅子に座る。

「浮気してた」

その一言で空気が少しだけ変わる。


「しかも会社の後輩。意味わかんない」

「見る目なかったな」

悠真は水を飲みながら答える。


「お義兄ちゃんみたいな人ならよかったのに」

一瞬、美咲が笑う。

「やめなって」

「だって優しいじゃん」


莉奈は軽く笑った。その笑い方だけが、なぜか少しだけ残る。


夜になり、子供たちが寝たあと、家の空気は静かになった。

悠真はベランダに出て煙草に火をつける。夜風が少しだけ冷たい。


スマホが震えた。

『会いたいな』

昼間抱いた女からだった。

悠真は一度だけ空を見てから返信する。

『また今度な』


その時、背後から声がした。

「まだ吸ってるんだ」

振り返ると莉奈が立っていた。


「美咲は?」

「風呂」

莉奈は隣に並ぶ。距離が近い。シャンプーの匂いが、夜の空気に混ざる。


「お義兄ちゃんってさ」

「ん」

「なんでそんな優しいの?」

「普通だろ」

「普通じゃないよ」


少しの沈黙。

「彼氏、最低だった」

「そう」

「浮気する男ってほんと無理」

その言葉の直後、スマホがまた震える。


莉奈の視線がそこに落ちる。

画面には通知。

『次いつ会える?♡』

空気が止まった。


悠真はすぐに画面を伏せる。

だが、遅かった。

莉奈は笑わなかった。


「……お義兄ちゃんも、そういうことするんだ」

「会社のやつだよ」

「ふーん」

信じていない声だった。


しばらくの沈黙のあと、莉奈は小さく言う。

「最低」

それだけ言って部屋へ戻っていく。

扉が閉まる音だけが残った。


悠真は煙を吸い直し、舌打ちする。

面倒だ。

ただそれだけだった。

この時はまだ、何も壊れていないと思っていた。


──


朝はいつも通り始まった。


子供たちの声、美咲の弁当、いつもと同じ時間の流れ。昨日の夜のことは、家の中では何も起きていないみたいに消えている。


「行ってきます」

「いってらっしゃい」

玄関のドアが閉まる瞬間まで、家は普通だった。


会社に着くと、すぐに仕事の顔になる。営業の数字、会議、上司の機嫌。昼にはもう昨夜の空気はほとんど思い出せなくなっていた。


ただ一度だけ、スマホが震えた。

莉奈からだった。

『昨日ごめんね』

短いメッセージ。

悠真は一度だけ画面を見て、そのまま既読をつけずにポケットに戻した。



夜。

帰宅すると、美咲が少しだけ早口で言った。

「今日さ、莉奈また来るって」

「また?」

「なんかちょっと気分落ちてるみたいで」

悠真は靴を脱ぎながら曖昧に返す。

「ふーん」


その瞬間、玄関のチャイムが鳴った。

「はーい!」

美咲が開けると、莉奈はすぐに入ってくる。

「お邪魔しまーす」

昨日と同じような顔。でも少しだけ目が赤い。

「ごめんね、急に」

「いいよ、いつものことだし」

美咲は笑うが、莉奈はあまり笑わない。

「彼氏とまた?」

「うん。もう無理かも」


リビングに入ると、莉奈はそのままソファに座り込む。

「浮気とかじゃなくてさ、もう私のこと見てない感じ」

その言葉に、美咲が少し黙る。

「それ、きついね」

悠真はキッチンで水を飲みながら聞いていた。

「別れればいいじゃん」

「簡単に言うよね」

莉奈が笑う。でもその笑いは乾いている。

「お義兄ちゃんはそういうの、ちゃんと切れる人でしょ」

「別に」

「優しいからさ」

その言葉に、悠真は何も返さなかった。



夕食後、莉奈は帰らずに残っていた。

子供たちはもう寝ている。リビングの明かりだけが残る。

美咲は洗い物をしていて、二人だけが少しだけ静かな空間にいる。


「ねえ」

莉奈がぽつりと言う。

「お義兄ちゃんって、怒ることあるの?」

「あるよ」

「見たことない」

「見せてないだけ」

莉奈は少し笑う。

「ずるいね、それ」


そのあと、少し間が空いた。

「昨日さ」

莉奈が言う。

「ほんとは寝れなかった」

「彼氏のこと?」

「うん。でもそれだけじゃなくて」

言いかけて止まる。


悠真はそのまま聞き流すつもりだった。

でも莉奈は続ける。

「なんか、変なこと考えてた」

「何」

莉奈は一瞬だけ悠真を見る。

「やっぱいいや」

そのまま立ち上がる。

「帰るね」

「送るよ」

「いい」


美咲がキッチンから顔を出す。

「大丈夫?」

「うん」

莉奈は短く答えて、玄関へ向かう。



その夜、ベランダ。

悠真は煙草を吸っていた。

空は曇っていて、遠くの街灯だけがぼんやり見える。

スマホが震える。

莉奈から。

『昨日のこと、ごめん』

少しだけ迷って、既読をつける。

『気にすんな』

すぐに返信が来る。

『お義兄ちゃんってほんと優しいね』

その一文を見た瞬間、なぜか煙草の味が少しだけ変わった気がした。


背後でドアが開く。

「まだ吸ってるの?」

美咲だった。

「すぐ戻る」

「最近さ、莉奈ちょっと変じゃない?」

何気ない一言。

悠真は煙を吐きながら答える。

「いつもあんな感じだろ」

「そうかな」

美咲は少しだけ首をかしげる。

「なんかさ、悠真のこと見てる時、ちょっと違う気がして」

「考えすぎ」

そう言って終わらせた。


でもその瞬間、スマホがもう一度震えた。

画面には通知。

莉奈からのメッセージがまだ続いている。

既読をつける前に、悠真は画面を伏せた。

夜の空気が、少しだけ重くなった気がした。


ここまで読んでくださってありがとうございました!

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