嫉妬
車の中は静かだった。
エアコンの風と、ワイパーの音だけが一定のリズムで響いている。
悠真は前を向いたまま運転していた。
隣では莉奈が窓に頭を預けている。
酔っているせいか、いつもより無防備だった。
「……気持ち悪い?」
「別に」
「優しい」
「普通だろ」
その返しに、莉奈は小さく笑う。
「またそれ」
赤信号で車が止まる。
コンビニの明かりがフロントガラスに反射して、車内をぼんやり照らした。
莉奈はじっと悠真を見ている。
「お義兄ちゃんってさ」
「ん」
「なんでそんな平気なの?」
「何が」
「浮気」
悠真は眉をひそめる。
「まだその話するのか」
「だって気になるし」
「人の家庭に首突っ込むな」
「家族だから気になるんじゃん」
莉奈は少し酔った声で続ける。
「お姉ちゃん、ほんとにお義兄ちゃんのこと好きなのに」
「……」
「なのに他の女抱いて、普通に帰ってこれるのすごいよね」
責める口調ではなかった。
本当に不思議そうだった。
それが逆に嫌だった。
悠真は煙草を取り出しかけて、車内だったことを思い出して戻す。
「浮気したことないやつには分かんねぇよ」
「ないよ」
「だろ」
「でも」
莉奈はゆっくり視線を上げる。
「好きじゃない人とはこうならない気がする」
悠真は返事をしない。
信号が青になる。
車がまた走り出す。
しばらく沈黙が続いたあと、莉奈がぽつりと言った。
「ねえ」
「何」
「お義兄ちゃんって、お姉ちゃんのこと好き?」
悠真は少しだけ考える。
「好きだよ」
即答だった。
嘘ではない。
美咲のことはちゃんと大事だった。
子供たちも大切だ。
家族を失いたいなんて一度も思ったことはない。
「じゃあなんで浮気するの?」
またそこへ戻る。
悠真は苛立ったように息を吐いた。
「男はそういうもんだろ」
「最低」
莉奈が笑う。
「でもさ」
そのまま続ける。
「お義兄ちゃんは、自分が浮気されても平気なの?」
「は?」
「お姉ちゃんが他の男とホテル行っても?」
その瞬間、悠真の顔が少し変わった。
莉奈は見逃さなかった。
「……嫌なんだ」
「当たり前だろ」
「自分はするのに?」
「話が違う」
「どこが?」
悠真は答えない。
答えられなかった。
莉奈はしばらく黙ったあと、窓の外を見ながら呟く。
「勝手だね」
その声が妙に静かで、悠真は少しだけ居心地が悪くなる。
やがて車はマンションの前に着いた。
「着いたぞ」
莉奈はすぐに降りなかった。
シートベルトを外したまま、じっと前を見ている。
「……帰りたくないな」
「は?」
「一人嫌」
酔ってるだけだ。
悠真はそう思う。
だが莉奈は続ける。
「今日、お姉ちゃんの家泊まっちゃダメ?」
「またかよ」
「いいじゃん」
少し甘えるみたいな声だった。
悠真は舌打ちする。
「美咲に聞け」
「聞いたら絶対いいよって言うし」
「じゃあ俺に聞くな」
莉奈はそこでやっとシートベルトを外した。
だが降りる直前、不意にこちらを見る。
距離が近い。
暗い車内で目だけがやけに近かった。
「ねえ」
「何」
「お義兄ちゃんってさ」
莉奈は少し迷うみたいに黙ったあと、小さく笑った。
「キス上手そうだよね」
空気が止まる。
悠真の眉がわずかに動いた。
「……酔いすぎ」
「否定しないんだ」
莉奈は楽しそうに笑う。
だがその目だけは、冗談を言っている目じゃなかった。
「じゃ、おやすみ」
ドアが閉まる。
莉奈は振り返らずマンションへ入っていく。
悠真はしばらくその背中を見ていた。
やがて深く息を吐き、ハンドルに手を置く。
面倒だ。
本当に。
そう思うのに。
さっきの言葉が、頭から離れなかった。
──
金曜の夜だった。
悠真は仕事を早めに切り上げ、ホテルへ向かっていた。
助手席には誰もいない。
車内に流れる音楽も小さい。
赤信号で止まった時、スマホが震える。
莉奈だった。
『今日帰り遅い?』
短いメッセージ。
悠真は数秒だけ画面を見る。
『仕事』
送信。
すぐ既読。
だが返信は来なかった。
ホテルの部屋に入ると、奈々がベッドの上で不満そうに頬を膨らませた。
「最近冷たくないですか?」
「そうか?」
「前よりスマホばっか見てる」
悠真はネクタイを外しながら笑う。
「仕事だよ」
「奥さんじゃなくて?」
「それならまだ平和だな」
奈々は笑ったあと、悠真の腕に抱きつく。
「今日泊まって」
「無理」
「また?」
「朝早い」
いつもの会話。
いつもの距離感。
本来なら、何も考えずに流せる時間だった。
なのに今日は妙に集中できない。
頭の奥にちらつくのは、莉奈の顔だった。
『キス上手そうだよね』
思い出した瞬間、悠真は小さく舌打ちする。
「どうしたんですか?」
「別に」
奈々が不満そうに眉を寄せる。
「今日ほんと変」
悠真は誤魔化すように奈々を引き寄せた。
ホテルを出た頃には、もう二十三時を過ぎていた。
地下駐車場へ向かいながらスマホを見る。
通知が何件も来ている。
美咲から一件。
『子供たち寝たよー』
そして莉奈から三件。
『仕事終わった?』
『まだ?』
『ねえ』
悠真は眉をひそめる。
少し考えてから電話をかけた。
数コール。
『もしもし』
すぐ出た。
「何だよ」
『……今どこ?』
「仕事終わったとこ」
嘘は自然に出る。
だが莉奈は静かだった。
『そっか』
「何」
『別に』
妙に声が暗い。
「酔ってんのか」
『飲んでない』
少し沈黙。
そのあと、莉奈がぽつりと言う。
『今、一人?』
「そうだけど」
また嘘。
だが次の瞬間。
『嘘』
悠真の動きが止まる。
『後ろ、女いるじゃん』
心臓が跳ねる。
反射的に振り返る。
だが誰もいない。
「……は?」
『ごめん、冗談』
電話の向こうで莉奈が小さく笑う。
「お前」
『でもなんか分かる』
低い声。
『今、お義兄ちゃん他の女といたでしょ』
悠真は無言になる。
沈黙だけが続く。
莉奈はその沈黙で全部理解したみたいだった。
『図星なんだ』
「……関係ないだろ」
『あるよ』
即答だった。
『なんでそんなことするの』
「だからお前には」
『お姉ちゃん泣くよ』
その言葉に、悠真は少し苛立つ。
「お前さ」
『何』
「最近おかしい」
莉奈が笑う。
でもその笑い声は少し震えていた。
『おかしくしたのお義兄ちゃんじゃん』
悠真は返せない。
『最初は最低だと思った』
莉奈は静かに続ける。
『ほんと無理って思った』
駐車場の冷たい空気が肌にまとわりつく。
『でも』
小さな息。
『他の女といるの想像すると苦しい』
悠真は目を閉じた。
これはまずい。
本能的にそう思う。
だが莉奈は止まらなかった。
『なんでこんな気持ちになるのか分かんなかったけど』
沈黙。
『多分、嫉妬してる』
空気が止まる。
悠真は何も言えなかった。
電話の向こうで、莉奈が小さく笑う。
『最低だよね、私』
そう言いながら莉奈は悠真の事を好きになったきっかけを思い出していた。
──
まだ美咲と悠真が結婚する前。
莉奈が高校二年生だった頃。
その頃の悠真は、まだ今みたいに余裕のある大人じゃなかった。
仕事を始めたばかりで、給料も多くない。
美咲と付き合って三年目。
よく家にも来ていた。
「お邪魔します」
そう言って入ってくる悠真を、莉奈は最初あまり好きじゃなかった。
なんか胡散臭いと思っていた。
いつも笑っていて。
誰にでも優しくて。
そういう男は信用できない、と勝手に思っていた。
「莉奈ちゃん、またスマホばっか見てる」
「別にいいじゃん」
「目悪くなるぞ」
「お母さんみたいなこと言わないで」
「はは、ごめんごめん」
その軽い感じも嫌だった。
だからいつも適当に返していた。
そんなある日。
学校で少し嫌なことがあった。
仲良かった友達に無視されていた。
理由も分からない。
女子同士の面倒な空気。
家に帰っても気分が悪くて、夕飯もいらないと言って自分の部屋へ閉じこもった。
泣くほどじゃない。
でも、ずっと胸が重かった。
数時間後。
コンコン、とドアが鳴る。
「莉奈ちゃん?」
悠真だった。
「なに」
「美咲が心配してるぞ」
「平気」
「そっか」
いつもならそれで終わるのに、その日は違った。
ドアの向こうから声がした。
「じゃあ俺、ここで待ってるわ」
「……は?」
「元気になったら出てきて」
意味が分からなかった。
数分でいなくなると思った。
でも十分経っても、二十分経っても気配が消えない。
イライラしてドアを開ける。
すると悠真は廊下に座っていた。
「あ、出てきた」
普通に笑う。
「何してんの?」
「待ってた」
「なんで」
「なんでだろ」
笑いながら頭を掻く。
「なんか、平気な顔してる時の莉奈ちゃんと違ったから」
莉奈は黙った。
「何かあったんだろ?」
責めるでもなく。
無理に聞くでもなく。
ただ、当たり前みたいに隣に座った。
「話したくないなら別にいい」
「……」
「でも、一人で抱えるのって結構きついぞ」
優しい声だった。
その瞬間。
何かが切れた。
「……っ」
ぽろ、と涙が落ちる。
自分でもびっくりした。
泣くつもりなんかなかった。
なのに止まらなかった。
「え、あ、ごめん!俺なんか変なこと言った!?」
慌てる悠真。
その姿が少しおかしくて、莉奈は泣きながら笑った。
「……ばか」
「えぇ?」
「……ばか」
あの日。
たぶん、少しだけ。
本当に少しだけ。
好きになった。
でもその時は、まだ知らなかった。
その人が数年後、自分のお姉ちゃんの旦那になることを。
ここまで読んでくださってありがとうございました!
少しでも「続きが気になる」「ドロドロ最高」と思っていただけたら、
作品フォロー・☆☆☆☆☆評価・感想をいただけるととても励みになります!
「このキャラやばすぎ」「ここ好き」など一言感想も大歓迎です!




