最低
奈々が死んだと連絡が来たのは、その三日後だった。
仕事中だった。
悠真のスマホが震える。
また知らない番号だった。
嫌な汗が背中を伝う。
「……はい」
『黒沢さん、以前ご連絡した者です』
奈々の友人だった。
その声を聞いた瞬間、悠真は察した。
『今朝……奈々が』
そこで言葉が詰まる。
周囲ではキーボードの音が響いている。
同僚たちは普通に仕事をしていた。
なのに悠真だけ、世界から切り離されたみたいだった。
『亡くなりました』
頭が真っ白になった。
しばらく何も聞こえなかった。
耳鳴りだけが残る。
「……は」
情けない声が漏れる。
『マンションで……首を』
そこから先は、ほとんど入ってこなかった。
通話が終わったあとも、悠真はスマホを握ったまま動けなかった。
呼吸が浅い。
吐きそうだった。
「黒沢さん?」
後輩に声をかけられ、悠真は慌てて顔を上げた。
「顔色やばいですよ」
「あー……寝不足」
笑う。
いつものように。
反射だった。
そうしないと崩れそうだった。
トイレに駆け込み、個室に閉じこもる。
便座に座った瞬間、全身の力が抜けた。
「……っ」
震える。
奈々が死んだ。
本当に。
頭では理解しているのに、現実感がなかった。
スマホを開く。
未読のまま残っている奈々のメッセージ。
『なんで無視するの?』
『会いたい』
『ねえ』
『お願いだから捨てないで』
最後のメッセージは、深夜二時だった。
『もう疲れた』
悠真は目を閉じた。
胸の奥が重い。
苦しい。
でも。
それ以上に。
─終わった。
そう思ってしまった自分に気づき、ぞっとした。
最低だ。
奈々が死んだのに。
自分はどこかで、“解放された”と思っている。
スマホが震える。
莉奈からだった。
『今日も行っていい?』
画面を見つめたまま、悠真は動けなかった。
今日は来るな。
そう返したかった。
今は誰にも会いたくなかった。
特に莉奈には。
あいつは勘が鋭い。
顔を見れば何か気づく。
でも、断れば面倒になる。
最近の莉奈は少し不安定だった。
返信が遅いだけで空気が変わる。
他の女の影を感じれば、笑ったまま目が死ぬ。
悠真は短く打った。
『好きにしろ』
送ったあと、深く息を吐く。
その日の仕事は、ほとんど頭に入らなかった。
気づけば奈々の顔が浮かぶ。
泣きながら縋ってきた夜。
震える声。
「捨てないで」と言った顔。
悠真は強く目を閉じた。
考えるな。
もう終わったんだ。
そう思おうとするほど、胃の奥が重くなる。
夜。
家のドアを開けると、子供たちの声が飛んできた。
「パパー!」
小さな体が抱きついてくる。
悠真はぎこちなく笑った。
「ただいま」
「今日ハンバーグだよ」
キッチンから美咲が顔を出す。
エプロン姿のまま、柔らかく笑っていた。
その光景が眩しすぎて、悠真は一瞬目を逸らした。
「……そっか」
「どうしたの? 疲れてる?」
「仕事だよ」
自然に嘘が出る。
美咲は疑わなかった。
「ご飯できてるから座って」
その時、リビングのソファから莉奈が顔を出した。
「おかえり、お義兄ちゃん」
悠真の心臓が嫌な音を立てる。
莉奈は笑っていた。
でも、その目だけが妙に鋭かった。
「……来てたのか」
「うん。お姉ちゃんと子供たちだけじゃ寂しいかなーって」
冗談っぽく言いながら、じっと悠真を見る。
観察されている気がした。
夕飯中も、悠真はほとんど味がわからなかった。
子供たちは楽しそうに喋っている。
美咲も笑って相槌を打っていた。
平和だった。
あまりにも。
だから余計に苦しい。
「パパ、今日静かー」
娘に言われ、悠真は無理やり笑う。
「そんなことねぇよ」
「あるよー」
子供の無邪気な声が刺さる。
その横で、莉奈だけが黙っていた。
ただ、ずっと悠真を見ている。
食後。
悠真は逃げるようにベランダへ出た。
煙草に火をつける。
夜風が冷たい。
肺に煙を落としても、全然落ち着かなかった。
ガラス戸が開く音がする。
「また煙草増えた?」
莉奈だった。
「……知らね」
「嘘」
隣に並ぶ。
距離が近い。
「顔色やばいよ」
「仕事で疲れてるだけ」
「へぇ」
莉奈は手すりにもたれながら、横目で悠真を見る。
「また女?」
その瞬間、悠真の指先が止まった。
莉奈は小さく笑う。
「わかりやす」
「違ぇよ」
「じゃあ何」
責めるような声じゃなかった。
むしろ静かだった。
だから怖い。
悠真は煙を吐き出す。
誤魔化せる気がしなかった。
「……死んだ」
「え?」
「前の女」
莉奈の表情が固まる。
「自殺した」
沈黙。
遠くで車の走る音だけが聞こえる。
「……お義兄ちゃんのせい?」
悠真は答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙だけで十分だった。
莉奈はゆっくり息を吐く。
「最低」
ぽつりと言う。
「人壊して……死なせて……」
「……」
「それでも普通に帰って来れるんだ」
悠真は何も言えなかった。
言い返せない。
全部事実だった。
すると莉奈は、ふっと笑った。
壊れたみたいに。
「でもさ」
暗い目で悠真を見る。
「そういうとこ、お義兄ちゃんっぽい」
「なんだよそれ」
「だってまた繰り返すでしょ?」
ぞくり、とした。
莉奈は一歩近づく。
「必要とされるの好きだもんね」
奈々の顔が浮かぶ。
由奈の笑顔も。
泣きながら縋ってきた女たちも。
「次は誰壊すの?」
莉奈は笑う。
「由奈?」
「それとも私?」
悠真は反射的に莉奈の腕を掴んだ。
「やめろ」
「なんで?」
「そういう言い方……」
「図星だから?」
莉奈の目はおかしかった。
怒っている。
傷ついている。
なのに、その奥に熱がある。
「ねえ、お義兄ちゃん」
莉奈は悠真の胸元に触れる。
「私も壊れる時、ちゃんと責任取ってね」
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