依存
最初に違和感を覚えたのは、匂いだった。
柔軟剤でも、香水でもない。
もっと甘ったるい、若い女の匂い。
悠真が帰宅した瞬間、莉奈はそれに気づいた。
「……お義兄ちゃん、煙草変えた?」
夕飯のあと、キッチンで皿を洗っていた悠真の背中に向かって聞く。
悠真は一瞬だけ動きを止めた。
「いや? 変えてないけど」
「ふーん」
莉奈は冷蔵庫にもたれながら、じっと悠真を見る。
視線を感じたのか、悠真が振り返った。
「なに」
「別に」
笑った。
けれど胸の奥は、嫌な熱でじわついていた。
最近、悠真のスマホを見る癖がついていた。
ロック番号は知っている。
最初は罪悪感があった。
でも、一度見てしまえば終わりだった。
知らない女の名前。
削除されたトーク。
通知だけ残ったメッセージ。
『今日はありがとう♡』
そのハートを見るだけで、息が苦しくなった。
悠真は“約束”したはずだった。
他の女とは終わらせるって。
莉奈だけだって。
なのに。
その夜、莉奈は悠真が風呂に入っている隙にスマホを開いた。
トーク一覧をスクロールする。
消されている。
でも、完全には消せていなかった。
会社のグループLINE。
その中に、一瞬だけ見えた名前。
『由奈』
派遣。
最近入った女。
前に一度だけ会社帰りの飲みで会ったことがある。
二十代前半くらいの、ふわふわした女だった。
男に甘えるのが上手そうな。
莉奈は、その名前を見た瞬間に確信した。
「ああ……まただ」
声が漏れた。
胸が痛い。
なのに、頭は妙に冷静だった。
悠真はこういう女を選ぶ。
頼ってきそうで。
放っとけなくて。
少し危うい女。
まるで昔の自分みたいな。
風呂場からシャワー音が聞こえる。
莉奈はスマホを元の位置に戻した。
その手が、小さく震えていた。
翌週、莉奈は会社の近くまで行った。
自分でも馬鹿だと思った。
でも、止まれなかった。
駅前のカフェで二時間待って、ようやく悠真が出てくる。
隣には、由奈がいた。
笑っていた。
悠真が。
自分に向ける時と同じ顔で。
由奈の肩を軽く叩きながら、優しく笑っている。
その瞬間。
視界の端が暗くなった。
「……なに、それ」
喉が詰まる。
苦しい。
苦しいのに、目が逸らせない。
由奈は悠真を見上げながら笑っていた。
嬉しそうに。
安心した顔で。
ああ、駄目だ。
この女、もう落ちてる。
莉奈にはわかった。
悠真に依存し始めてる顔だった。
昔、自分が鏡で見ていた顔と同じだった。
その夜、莉奈は何も言わなかった。
悠真が家に来ても、笑っていた。
「今日遅かったね」
「ちょっと仕事長引いて」
「そっか」
怒らない。
責めない。
その代わり、悠真の目をずっと見ていた。
悠真は居心地悪そうに煙草を咥える。
「……なんだよ」
「別に?」
莉奈は笑った。
でも、その夜。
一人になった瞬間、洗面所で吐いた。
胃液しか出なかった。
鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。
「……っ、はは」
笑い声が漏れる。
情けなかった。
結局、自分も“その他大勢”なんだ。
特別だと思っていた。
でも違った。
悠真は、誰にでも優しい。
誰にでも必要とされたい。
それだけ。
わかっていたはずなのに。
数日後。
由奈から悠真への連絡は、さらに増えていた。
『会いたい』
『今、家帰りたくない』
『悠真さんだけだよ』
莉奈はスマホを見ながら、静かに笑った。
「……始まった」
依存だ。
もう始まってる。
悠真はまた、壊す。
相手を安心させて。
依存させて。
離れる。
昔からずっとそうだったんだろう。
──
その頃、奈々は壊れ始めていた。
奈々は、悠真が“切った女”だった。
約束通り関係を終わらせた相手。
でも、奈々は終われなかった。
『どうして急に冷たくなるの?』
『私、何かした?』
『会いたい』
未読のメッセージが増えていく。
悠真は返さなかった。
返せば面倒になると思った。
期待させるだけだと。
でも、それが一番残酷だった。
奈々はどんどん不安定になっていった。
会社を休むようになり、SNSには意味深な投稿が増えた。
『消えたい』
『全部疲れた』
『誰も本気じゃない』
悠真は見ないふりをした。
関わるな。
終わったんだ。
自分にそう言い聞かせた。
だがある夜、知らない番号から電話が来た。
「……黒沢さんですか?」
女の声だった。
「奈々の友達なんですけど」
嫌な予感がした。
「奈々が……救急車で運ばれて」
心臓が止まりそうになった。
駅のホームだった。
周囲の音が遠くなる。
「薬……大量に飲んで」
その瞬間、悠真の脳裏に奈々の顔が浮かんだ。
泣きながら笑う顔。
『悠真くんだけなんだよ』
そう言っていた声。
「命は……助かったんですけど」
友人は震えながら言った。
「ずっと黒沢さんの名前呼んでました」
電話が切れたあとも、悠真はしばらく動けなかった。
冷や汗が止まらない。
罪悪感。
恐怖。
吐き気。
全部が一気に押し寄せる。
でもその奥で。
悠真は、自分が真っ先に考えたことに気づいてしまった。
──美咲に知られたらまずい。
最低だった。
本当に。
人間として終わっていた。
その頃、莉奈は一人で笑っていた。
奈々のSNSを見ながら。
『死にたい』
その言葉を眺めて、静かにスマホを伏せる。
「……お義兄ちゃんって、本当に最低」
なのに。
それでも。
そんな男から離れられない自分が、一番壊れていた。
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