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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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10/31

依存

 最初に違和感を覚えたのは、匂いだった。

 柔軟剤でも、香水でもない。

 もっと甘ったるい、若い女の匂い。

 悠真が帰宅した瞬間、莉奈はそれに気づいた。


「……お義兄ちゃん、煙草変えた?」

 夕飯のあと、キッチンで皿を洗っていた悠真の背中に向かって聞く。

 悠真は一瞬だけ動きを止めた。

「いや? 変えてないけど」

「ふーん」


 莉奈は冷蔵庫にもたれながら、じっと悠真を見る。

 視線を感じたのか、悠真が振り返った。

「なに」

「別に」


 笑った。

 けれど胸の奥は、嫌な熱でじわついていた。

 最近、悠真のスマホを見る癖がついていた。

 ロック番号は知っている。

 最初は罪悪感があった。

 でも、一度見てしまえば終わりだった。


 知らない女の名前。

 削除されたトーク。

 通知だけ残ったメッセージ。


『今日はありがとう♡』


 そのハートを見るだけで、息が苦しくなった。

 悠真は“約束”したはずだった。

 他の女とは終わらせるって。

 莉奈だけだって。

 なのに。


 その夜、莉奈は悠真が風呂に入っている隙にスマホを開いた。

 トーク一覧をスクロールする。

 消されている。

 でも、完全には消せていなかった。

 会社のグループLINE。

 その中に、一瞬だけ見えた名前。


『由奈』


 派遣。

 最近入った女。

 前に一度だけ会社帰りの飲みで会ったことがある。

 二十代前半くらいの、ふわふわした女だった。

 男に甘えるのが上手そうな。

 莉奈は、その名前を見た瞬間に確信した。


「ああ……まただ」

 声が漏れた。

 胸が痛い。

 なのに、頭は妙に冷静だった。

 悠真はこういう女を選ぶ。


 頼ってきそうで。

 放っとけなくて。

 少し危うい女。


 まるで昔の自分みたいな。

 風呂場からシャワー音が聞こえる。

 莉奈はスマホを元の位置に戻した。

 その手が、小さく震えていた。


 翌週、莉奈は会社の近くまで行った。

 自分でも馬鹿だと思った。

 でも、止まれなかった。


 駅前のカフェで二時間待って、ようやく悠真が出てくる。

 隣には、由奈がいた。

 笑っていた。

 悠真が。

 自分に向ける時と同じ顔で。

 由奈の肩を軽く叩きながら、優しく笑っている。


 その瞬間。

 視界の端が暗くなった。

「……なに、それ」

 喉が詰まる。

 苦しい。

 苦しいのに、目が逸らせない。


 由奈は悠真を見上げながら笑っていた。

 嬉しそうに。

 安心した顔で。


 ああ、駄目だ。

 この女、もう落ちてる。

 莉奈にはわかった。


 悠真に依存し始めてる顔だった。


 昔、自分が鏡で見ていた顔と同じだった。

 その夜、莉奈は何も言わなかった。

 悠真が家に来ても、笑っていた。


「今日遅かったね」

「ちょっと仕事長引いて」

「そっか」


 怒らない。

 責めない。

 その代わり、悠真の目をずっと見ていた。

 悠真は居心地悪そうに煙草を咥える。

「……なんだよ」

「別に?」

 莉奈は笑った。


 でも、その夜。

 一人になった瞬間、洗面所で吐いた。

 胃液しか出なかった。

 鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。

「……っ、はは」

 笑い声が漏れる。

 情けなかった。


 結局、自分も“その他大勢”なんだ。


 特別だと思っていた。

 でも違った。

 悠真は、誰にでも優しい。

 誰にでも必要とされたい。

 それだけ。

 わかっていたはずなのに。


 数日後。

 由奈から悠真への連絡は、さらに増えていた。


『会いたい』

『今、家帰りたくない』

『悠真さんだけだよ』


 莉奈はスマホを見ながら、静かに笑った。

「……始まった」

 依存だ。

 もう始まってる。

 悠真はまた、壊す。


 相手を安心させて。

 依存させて。

 離れる。


 昔からずっとそうだったんだろう。


──


 その頃、奈々は壊れ始めていた。

 奈々は、悠真が“切った女”だった。

 約束通り関係を終わらせた相手。


 でも、奈々は終われなかった。


『どうして急に冷たくなるの?』

『私、何かした?』

『会いたい』


 未読のメッセージが増えていく。

 悠真は返さなかった。

 返せば面倒になると思った。

 期待させるだけだと。

 でも、それが一番残酷だった。

 奈々はどんどん不安定になっていった。

 会社を休むようになり、SNSには意味深な投稿が増えた。


『消えたい』

『全部疲れた』

『誰も本気じゃない』


 悠真は見ないふりをした。

 関わるな。

 終わったんだ。

 自分にそう言い聞かせた。


 だがある夜、知らない番号から電話が来た。

「……黒沢さんですか?」

 女の声だった。

「奈々の友達なんですけど」

 嫌な予感がした。

「奈々が……救急車で運ばれて」

 心臓が止まりそうになった。


 駅のホームだった。

 周囲の音が遠くなる。

「薬……大量に飲んで」

 その瞬間、悠真の脳裏に奈々の顔が浮かんだ。

 泣きながら笑う顔。

『悠真くんだけなんだよ』

 そう言っていた声。


「命は……助かったんですけど」

 友人は震えながら言った。

「ずっと黒沢さんの名前呼んでました」

 電話が切れたあとも、悠真はしばらく動けなかった。

 冷や汗が止まらない。


 罪悪感。

 恐怖。

 吐き気。


 全部が一気に押し寄せる。

 でもその奥で。

 悠真は、自分が真っ先に考えたことに気づいてしまった。


 ──美咲に知られたらまずい。


 最低だった。

 本当に。

 人間として終わっていた。

 その頃、莉奈は一人で笑っていた。

 奈々のSNSを見ながら。


『死にたい』


 その言葉を眺めて、静かにスマホを伏せる。

「……お義兄ちゃんって、本当に最低」

 なのに。

 それでも。


 そんな男から離れられない自分が、一番壊れていた。

ここまで読んでくださってありがとうございました!

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