名もなき違和感
一月の半ば、街はまだ正月の名残を引きずっていた。
香帆は拓海と美咲と三人で会っていた。
駅近くのファミレスだった。
明るくて、騒がしくて、誰もが誰かの話をしている場所。
それが、少しだけ安心だった。
「懐かしいね、こういうの」
美咲がストローをくわえたまま笑った。
「ほんと。中学の帰りにそのまま寄ってたよな」
拓海が言う。
「テスト前とかね。全然勉強しなかったけど」
三人で笑った。
時間は確実に流れているはずなのに、この瞬間だけは昔と同じ場所に戻ったみたいだった。
「絵里は?」
「今日は無理だって。仕事」
「そっか。あいつも東京なんだよな」
拓海が少しだけ遠くを見るように言った。
「うん。たまに会ってる」
「よろしく伝えといて」
「いいよ」
自然な会話だった。
無理もなく、作った感じもない。
それが、心地よかった。
――
店を出たのは、八時を少し回った頃だった。
夜の空気は、思っていたより冷たかった。
駅に向かう途中で、香帆はスマートフォンを取り出した。
画面を見た瞬間、足が止まった。
着信が並んでいた。
七件。
すべて、優斗からだった。
時間は、ほとんど重なっていた。
数分の間に、続けて。
指先が、わずかに冷えた。
LINEを開く。
送ったはずのメッセージが、下書きのまま残っていた。
送信されていなかった。
その事実に、少しだけ息が詰まる。
「どうした?」
拓海が気づいた。
「……ちょっと電話してくる」
香帆はその場で、通話ボタンを押した。
呼び出し音は、一回で切れた。
「どこにいたの」
最初の一言だった。
声は、静かだった。
怒っているようには聞こえない。
でも、逃げ場がなかった。
「……ごめん。美咲と拓海と、三人でご飯してた」
「連絡、来てないけど」
一拍もない。
「送ったつもりで、送れてなかった」
言いながら、自分でも弱いと思った。
「そう」
短い返事。
それだけなのに、会話が止まらない。
「その人」
一瞬、間があった。
「どのくらい仲いいの」
香帆は言葉に詰まった。
「幼馴染だって言ったじゃん」
「どのくらい」
繰り返された。
「小さい頃から一緒で……中学まで」
「今は?」
「……何もないよ」
「普通ってこと?」
喉の奥が、ひりついた。
「……そうだと思う」
「普通って、どのくらい」
同じところを、なぞるように。
でも、少しずつ深くなっていく。
「俺に言えない関係?」
奥歯が、わずかに噛み合った。
「違うよ」
即答だった。
沈黙が落ちる。
「責めてるわけじゃない。ただ、知りたいだけ」
声は変わらない。
穏やかなまま、全部を閉じていく。
逃げ場が、なくなっていく。
ただ、静かに。
「……ごめんなさい」
気づいたときには、そう言っていた。
謝る理由が、どこにもなかった。
それでも、体が先に謝っていた。
なぜ謝ったのか、自分でもわからなかった。
「いいよ」
すぐに返ってきた。
「心配しただけだから」
その一言で、終わった。
はずだった。
「フォレストテーブル?」
一瞬、息が止まった。
「……え?」
「さっき、三人で集まってた店」
思い出すみたいな、言い方だった。
「……どうしてわかったの?」
「この時間帯で三人なら、その辺かなと思って」
軽い言い方だった。
頭の中で、その論理を組み立てようとした。
できなかった。
考えかけて、止めた。
これ以上たどると、どこかに着いてしまう。
「……そっか」
その一言で、蓋をした。
「今、どこ?」
「駅に向かってる」
「気をつけて帰って」
「うん」
それで、電話は終わった。
香帆は、ゆっくりとスマートフォンを下ろした。
胸の奥に、何かが残っていた。
名前のつかない違和感だった。
「大丈夫?」
美咲が覗き込んだ。
「うん」
笑って答えた。
笑えているかどうかは、自分でもわからなかった。
――
改札の前で、三人は足を止めた。
「またね」
「うん」
美咲が先に改札へ入っていく。
少し遅れて、香帆も歩き出した。
「じゃあな」
拓海が言った。
「うん。また」
振り返らずに、手だけ振る。
そのまま改札を抜けた。
――
改札を抜けた香帆の背中が、人の流れに消えた。
拓海はその場に残ったまま、スマートフォンをポケットに入れた。
何気なく、周囲を見た。
そのときだった。
少し離れた場所に、男が立っていた。
視線が、改札の方に向いていた。
一瞬だけ、目が合った。
逸らされた。
でも、その顔に見覚えがあった。
香帆の彼氏。
どうして、ここにいる。
さっきまで、電話していたはずだ。
時間的に、合わない。
さっきまで電話していたはずの男が、なぜここにいるのか。
違和感が、はっきりと形になった。
でも拓海は、何も言わずにその場を離れた。
言える相手が、いなかった。
――
帰りの電車の中で、香帆はさっきの会話を何度も思い返した。
責められてはいない。
怒られてもいない。
優しかった。
それは間違いない。
なのに。
胸の奥に残っているものは、安心ではなかった。
もっと、重い何かだった。
心配しているだけ。
そう思おうとした。
でも。
さっき、自分が謝った理由だけが、どうしてもわからなかった。
――
家に帰ると、部屋は静かだった。
さっきまでの明るい声が、嘘みたいだった。
同じ夜のはずなのに、まるで別の場所にいるみたいだった。
スマートフォンの画面を、もう一度開く。
着信履歴が、そこに残っていた。
七件。
短い時間の中に、詰め込まれた回数。
その数字を見ていると、さっきの会話が現実だったことを思い知らされる。
画面を閉じた。
あのときの声と、今の部屋が、同じ夜にあることが信じられなかった。
どちらかが、嘘だ。




