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見えないトゲ


 十一月に入って最初の週、職場の同僚と三人で食事をした。


 同じ部署の先輩と後輩、男女一人ずつ。


 仕事の流れでそのまま店に入っただけで、特別な意味はなかった。


 それでも、どこか落ち着かなかった。


 会話は普通だった。


 仕事の愚痴、取引先の話、どうでもいい冗談。


 香帆も笑った。


 いつも通りに。


 ただ、途中で一度だけ、スマートフォンを確認した。


 通知は来ていなかった。


 それなのに、なぜか気になった。


 誰に対してなのか、自分でもわからなかった。


 ――


 店を出たのは九時前だった。


 夜の空気が、昼間の熱をわずかに残していた。


 駅へ向かう途中で、スマートフォンが鳴った。


 優斗からだった。


 なぜ今、と思った。


 一瞬だけ。


 出た。


「今、帰り?」


「うん。今日、ちょっと遅くなって」


「誰と」


 一拍もなかった。


「……職場の人と」


「何人」


「三人。男の人と女の人と」


 沈黙があった。


 電話の向こうの沈黙は、形がない。


 なのに、重さがあった。


「男の人?」


 繰り返しただけだった。


 でも、その四文字が、胸に刺さった。


 棘みたいに。


 細く、深く。


「うん。同じ部署の人。それだけ」


 喉が、わずかに乾いた。


「そう」


 優斗の声は、穏やかだった。


 穏やかなまま、全部を閉じた。


 香帆はスマートフォンを握ったまま、動けなかった。


 何も悪いことはしていない。


 それだけが、頭の中で繰り返されていた。


 それ以上は、何も続かなかった。


 会話が切れたわけではない。


 ただ、そこに言葉がなくなった。


「……ごめん、今帰りだから」


「わかった」


 通話が切れた。


 画面が暗くなる。


 その「わかった」が、頭の中に残った。


 怒っているわけじゃない。


 なのに。


 何もしていないのに、謝りたくなった。


 その感覚だけが、残った。


 ――


 その夜、眠れなかった。


 理由はわかっていた。


 でも、認めたくなかった。


 嫉妬なら、まだよかった。


 でも。


 胸の奥に残ったものは、もっと硬かった。


 ――


 翌朝、スマートフォンにメッセージが届いていた。


 『昨日はごめん。心配しすぎた』


 短い一文。


 いつもと同じ、落ち着いた文面。


 香帆はしばらく画面を見つめてから、返信した。


 『大丈夫だよ』


 それで終わった。


 終わったはずだった。


 でも、香帆の中で何かが終わっていなかった。


 ――


 十二月の終わり、拓海から連絡が来た。


 幼稚園の頃からの付き合いだった。


 家が近所で、気づけばいつも一緒にいた。


 中学までは同じ学校で、高校で別れてからは、ほとんど会わなくなった。


 地元から東京に転勤になったらしい。


 知り合いがいないから、久しぶりに会わないか、と。


 懐かしさが先に来た。


 真紀のことを知っている人間の声が、久しぶりだった。


 断る理由はなかった。


 ――


 待ち合わせは、駅近くのファミレスにした。


 明るくて、人の目がある場所。


 それを選んだのが誰かへの警戒なのか、自分への用心なのか、考えないようにした。


 拓海は昔と変わっていなかった。


 声も、笑い方も、話し方も。


「美咲と絵里も、東京にいるんだよ。たまに会ってる」


「そっか。あの二人も来てるんだ」


 拓海は少しだけ笑った。


「じゃあ今度、呼んでよ。久しぶりに顔見たい」


 時間だけが、二人の間に積もっていた。


「あのとき、何もできなくてごめんな」


 真紀の話になったとき、拓海が言った。


 視線は、テーブルの上に落ちていた。


「拓海のせいじゃないよ」


 それ以上は、言葉が続かなかった。


 でも、沈黙は重くなかった。


 同じものを知っている人間の沈黙だった。


 ――


 店を出たのは、九時を過ぎた頃だった。


 夜風が、少しだけ涼しかった。


 駅に向かって歩く。


 信号を渡る。


 改札が見えてきた、そのとき。


 香帆の足が止まった。


 いた。


 優斗だった。


 改札の横に、ただ立っていた。


 探している様子もなく、待ちくたびれた様子もなく。


 まるで、最初からそこにいることを知っていたように。


 心臓が、一度だけ強く打った。


 嬉しいのか、怖いのか、わからなかった。


「迎えに来た」


 それだけだった。


「……どうして」


「近くにいたから」


 短い答え。


 嘘かどうか、判断できない言い方だった。


 香帆は頷いた。


 それしか、できなかった。


 拓海が軽く会釈した。


「田所です。幼馴染で」


「加藤です」


 二人の視線が、一瞬だけ交差した。


 拓海が、わずかに表情を変えた。


 優斗は、変えなかった。


 ――


 拓海が改札を抜ける。


「また連絡する」


 振り返って手を上げる。


 その背中が、人の流れに消えていった。


 優斗が、香帆の隣に並んだ。


 何も言わない。


 ただ、少しだけ距離が近かった。


「寒くない?」


 優斗が言った。


「大丈夫」


 歩き出す。


 自然に、手が重なった。


 温かかった。


 それだけのはずだった。


 なのに。


 胸の奥に、さっきの「何か」が残っていた。


 消えなかった。


 優斗の隣にいる限り――


 消えないのか、消せないのか、わからなかった。

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