表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/24

写らない


 引っ越して、しばらく経った頃だった。


 香帆は新しい部屋に立っていた。


 段ボールがいくつも積まれている。


 カーテンはまだ新品の匂いがして、窓から入る光が、少しだけ白く見えた。


 ここには、まだ何もない。


 だからこそ、安心できるはずだった。


「思っていたより、いいですね」


 後ろから優斗の声がした。


 振り返ると、玄関で靴を脱ぎながら、部屋の中を見渡している。


「うん。駅からも近いし」


「オートロックもありますし、防犯カメラも死角が少ないです」


 淡々とした口調だった。


 でも視線は、細かく動いていた。


 玄関からリビングまでの距離。


 ドアの位置。


 窓の高さ。


 ベランダの奥行き。


 一つひとつ、迷いなく確かめていく。


 まるで、この部屋を最初から知っているみたいに。


「鍵も交換済みですし、このタイプならピッキングもされにくいです」


「そこまでわかるんだ」


「仕事ですから」


 それだけだった。


 でも、その一言で十分だった。


 この部屋は安全だと、言われた気がした。


 香帆は、少しだけ息をついた。


 大丈夫。


 そう思えたのは、久しぶりだった。


 ――


 段ボールを一つ開ける。


 中から食器を取り出していると、優斗が自然にそれを受け取った。


「どこに置きますか」


「こっち」


 並んで作業をする。


 会話は多くない。


 でも、不思議と気まずくはなかった。


 紙が擦れる音。


 皿が触れ合う音。


 足音。


 それだけが、静かに部屋に広がる。


 生活が、ここから始まる。


 そう思えた。


 ひと通り片付けが終わる頃には、外は少し暗くなっていた。


「ありがとうございました。助かりました」


「いえ」


 優斗は短く答えた。


 そのまま、窓の方へ歩く。


 カーテンを少しだけ開けて、外を確認する。


「向かいの建物、距離がありますね」


「うん」


「視線も通りにくいです」


 何気ない言葉だった。


 でも、その確認の仕方が、妙な丁寧さだと思った。


 普通の人よりも細かく見ている。


「……そんなに気にする?」


 思わず聞くと、優斗は少しだけ笑った。


「職業病ですね」


 それで終わった。


 それ以上は、何も残らなかった。


 ――


 夜、二人で近くの川沿いを歩いた。


 昼間とは違って、風が少し冷たい。


 水面が光を弾いて、揺れている。


 しばらく並んで歩いてから、優斗が言った。


「堅いですね」


「え?」


「ずっと敬語なので」


 香帆は、一瞬言葉に詰まった。


 確かにそうだった。


 ここまで何度も会っているのに、どこか距離を保ったまま話している。


「……じゃあ、やめる?」


 自分でも少し驚くような言い方だった。


 優斗が、わずかに目を細める。


「その方が楽なら」


 それだけだった。


 強制もしないし、否定もしない。


 選ばせるような言い方だった。


 香帆は小さく頷いた。


「じゃあ、そうする」


 それで、距離が少しだけ変わった気がした。


 ――


 香帆はスマートフォンを取り出した。


「ねえ、ちょっと」


 優斗を見る。


「写真、撮ろうよ」


 タメ口が、自然に出た。


 優斗は一瞬だけ動きを止めた。


 ほんのわずかな間。


 すぐに、いつもの表情に戻る。


「……ごめん。俺、そういうの苦手で」


「え、なんで?」


「昔からあまり好きじゃなくて」


 困ったように笑う。


 自然だった。


 でも、はっきりと線が引かれていた。


「そっか」


 香帆はそれ以上言わなかった。


 優斗がスマートフォンを受け取る。


「こういうのは、好きなんですけどね」


 川の方へ向ける。


 シャッター音が鳴る。


 画面には、水面の光だけが映っていた。


 人は、いない。


「綺麗だよ」


 そう言って返してくる。


 香帆は画面を見て、それから優斗を見た。


 隣にいるのに、写っていない。


 それが、ほんの少しだけ寂しかった。


 でも。


 この人は、残されることを嫌っているのかもしれない。


 なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。


 そのまま、二人で歩く。


 距離が、少しだけ近くなった。


 ――


 翌週、優斗と食事をしていた。


 注文を済ませて、料理が来るまでの間、取り留めのない話をする。


 仕事のことや、最近のこと。


 いつもと同じような流れだった。


 その途中で、香帆はふと口を開いた。


「私さ」


 自分でも少しだけ唐突だと思う。


 優斗が顔を上げる。


「なに?」


 変わらない声だった。


「姉がいたんだよね」


 そこまで言って、少しだけ間が空く。


 グラスに触れていた指先に、わずかに力が入る。


「もういないんだけど」


 視線は落としたままだった。


 説明はしなかった。


 できるだけ、普段と同じ調子で言ったつもりだった。


 優斗はすぐには答えなかった。


 ほんの一瞬だけ――


 長すぎず、短すぎない間があって、それから口を開く。


「……そうなんだ」


 短い言葉だった。


 驚く気配が、なかった。


 知っていたような、静けさだった。


 それ以上は何も聞いてこなかった。


 踏み込む気配もなかった。


 そのまま、会話は自然に流れていく。


 さっきまでと同じように、何気ない話に戻る。


 それでよかった。


 それ以上、触れられたくなかった。


 ――


 九月の終わり、美咲と会った。


 カフェに座るなり、顔を覗き込まれる。


「もう付き合ってるでしょ」


 即答だった。


 香帆は何も言わなかった。


 否定もしなかった。


「やっぱり」


 美咲が笑う。


「顔でわかる」


「そんな変わってる?」


「変わってるって。なんか柔らかくなってる」


 その言葉に、少しだけ戸惑った。


 自分では、わからなかったからだ。


「で、どんな人?」


「……普通の人」


「絶対嘘」


 笑い声が上がる。


 その軽さが、少しだけ救いだった。


 ――


 数日後、四人で集まることになった。


 美咲の部屋だった。


 田中が先に来ていて、缶ビールを開けていた。


「お似合いじゃん」


 開口一番だった。


「やめてください」


 優斗が苦笑する。


 自然だった。


 場に溶け込んでいる。


 でも。


 どこか、一歩引いているようにも見えた。


 会話が続く。


 美咲が回して、田中が乗る。


 香帆も笑う。


 優斗は多くを話さない。


 でも、必要なときにだけ言葉を挟む。


 それが、ちょうどよかった。


「加藤ってさ、謎なんだよな」


 田中が言う。


「出身どこ?」


「……地方です」


「どこよ」


「遠い方です」


 それ以上は言わない。


 笑ったまま、流す。


「大学は?」


 一瞬、間があいた。


 優斗の表情は変わらなかった。


 でも、何かが変わった。


 部屋の空気の、どこかが。


「……そういう話、やめてもらっていいですか」


 柔らかい声だった。


 それが、かえって怖かった。


 場はすぐに戻る。


 香帆も笑う。


 でも、さっきの一瞬だけが、笑えなかった。


 気のせいかもしれない。


 そう思うことにした。


 ――


 帰り道、二人で歩く。


「楽しかった?」


 香帆が横を見た。


 一拍、間があいた。


「……悪くなかった」


 優斗は前を向いたまま言った。


 答えるまでの、そのわずかな間が、どこかに残った。


 でも、気にならなかった。


 隣にいるだけで、落ち着く。


 その感覚の方が、大きかった。


 駅の明かりが近づく。


 ふと、後ろを振り返る。


 人の流れが続くだけだった。


 誰もいない。


 それでも、首の後ろが冷えた。


 隣を見る。


 優斗がいる。


 この部屋だけは、安全だと思っていた。


 ――まだ、そのときは。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ