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重なる音


 帰宅しても、腕の感触が残っていた。


 鍵を閉めて、靴を脱ぐ。


 いつもと同じ動作のはずなのに、体だけが少し遅れているような感覚があった。


 ホームでの一瞬が、頭から離れない。


 押された。


 次の瞬間には、引き戻されていた。


 あの距離で、あのタイミングで。


 ソファに腰を下ろす。


 無意識に、掴まれた腕に触れる。


 優斗の手の感触が、まだ残っている気がした。


 大丈夫ですか、と言った声。


 何事もなかったように振る舞う態度。


 安心した。


 確かに、そう思った。


 でも。


 ゆっくりと、記憶をなぞる。


 一緒に改札を抜けて、同じホームに立った。


 そこまでは、はっきりしている。


 なのに。


 あの瞬間だけが、不自然に切り取られている。


 押された感覚があって、次の瞬間には、もう腕を掴まれていた。


 どうして、あのタイミングで動けたのか。


「……考えすぎ」


 声に出した瞬間、余計に信じられなくなった。


 スマートフォンが震えた。


 美咲からだった。


 『どうだった?』


 『普通だった』


 『絶対嘘』


 思わず、少しだけ笑った。


 そのまま立ち上がる。


 水を飲もうとして、足が止まった。


 ほんの些細な違和感だった。


 部屋の空気が、少しだけ違う。


 説明できるほどのものではない。


 でも、確かにさっきと同じではない。


 ゆっくりと、引き出しを開けた。


 手が止まる。


 ヘアピンの向きが、違う。


 隣の封筒の位置も、ずれている。


 紙の端が、ほんの少しだけ浮いている。


 昨日と、合わない。


 触れた。


 この部屋のどこかに、誰かが触れた。


 盗られてはいない。


 壊されてもいない。


 それなのに、もう元には戻らない気がした。


 またか。


 その認識が、音もなく落ちてきた。


 前にもあった。


 あのときは、気のせいだと思った。


 でも今回は違う。


 違和感が、一つじゃない。


 いくつも重なっている。


 香帆は、ゆっくりと部屋を見渡した。


 何もない。


 誰もいない。


 なのに。


 誰かが、ここにいた。


 その確信だけが、残る。


 スマートフォンを手に取る。


 優斗の名前が、画面にある。


 連絡すれば、また助けてくれるかもしれない。


 あのホームのときみたいに。


 指が、わずかに動いた。


 止まった。


 怖いからじゃない。


 疑っているわけでも――たぶん、ない。


 ただ。


 これを言葉にした瞬間、何かが確定してしまう気がした。


 何が、かはわからない。


 わからないまま、スマートフォンを下ろした。


「……大丈夫」


 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


 その夜は、ほとんど眠れなかった。


 目を閉じると、ホームの光景が浮かぶ。


 目を開けると、部屋の違和感が戻る。


 ――


 翌日、優斗からメッセージが来た。


 『昨日は大丈夫でしたか』


 短い一文。


 香帆は少し考えてから、返信した。


 『大丈夫です。ありがとうございました』


 すぐに既読がつく。


 『よかったです』


 それだけだった。


 余計な言葉はない。


 その距離感が、心地よかった。


 なのに。


 ほんのわずかに、何かが引っかかった。


 ――


 一週間後、再び会った。


 駅前のベンチ。


 夕方の風が、少し冷たかった。


「この前、怖くなかったですか」


 優斗が言う。


「びっくりはしましたけど、大丈夫です」


「そうですか」


 それ以上は聞かない。


 優斗は前を向いたまま言った。


「混んでいる場所は、危ないですから」


 その言葉が、静かに残る。


 説明だった。


 でも、何を説明されたのかが、わからなかった。


「気をつけます」


 香帆は頷いた。


 優斗が、わずかに笑う。


 その表情を見ると、不思議と落ち着いた。


 さっきまでの違和感が、少し遠くなる。


 隣にいるだけで、安心できる。


 その感覚が、確かにあった。


 ――


 別れて、一人になる。


 夜の道を歩く。


 足音が一つ。


 もう一つ、重なる。


 まただ。


 今度は、はっきりとわかった。


 歩幅を速める。


 距離が変わらない。


 振り返る。


 人の流れが続くだけだった。


 誰もいない。


 それでも。


 振り返る前まで、そこに「誰か」がいた。


 次は、振り返らない方がいいかもしれない。

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