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見えざる手


 店を出たとき、夜の空気は少し湿っていた。


 昼間よりも人通りは減っていて、音が遠く感じられた。


 優斗は隣を歩いていた。


 歩幅が合っていた。


 それだけのことなのに、少し安心した。


「こういう店、よく来るんですか」


「たまに」


 短いやり取りだった。


 無理に会話を続けない。


 それが、楽だった。


 交差点を一つ曲がったときだった。


 向こうから歩いてくる男に、香帆の視線が止まった。


 桐島だった。


 一人だった。


 コンビニの袋を提げて、こちらに向かってきていた。


 距離が縮まる。


 目が合う。


「中村さん」


 先に声をかけたのは桐島だった。


「こんばんは。お疲れ様です」


 香帆は軽く頭を下げた。


「この辺、来るんだね」


「ちょっと」


 短く答える。


 それ以上話したくなかった。


 優斗を紹介する気にもなれなかった。


 桐島の視線が、一瞬だけ優斗に向いた。


 値踏みするような、短い視線だった。


 それから、また香帆へ戻る。


「また来週ね」


 それだけ言って、桐島はすれ違った。


 振り返らなかった。


 でも、背中の皮膚が、まだ桐島を感じていた。


 ――


 数歩進んだところで、優斗がほんの半歩、前に出た。


 言われなければ気づかないくらい、自然な動きだった。


 でも確実に、香帆の前にいた。


 何も言わなかった。


「さっきの、職場の人ですか」


 少し歩いてから、優斗が聞いた。


「そうです。ちょっと苦手で」


「そうですか」


 それ以上は踏み込まなかった。


 でも、引きすぎない。


 過不足のない、距離だった。


 ――


 駅に着いた。


 改札の前で、香帆は立ち止まった。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


 そこで別れるつもりだった。


 けれど、優斗は動かなかった。


 香帆が改札に向かおうとすると、優斗が静かに言った。


「ホームまで行きます」


「大丈夫ですよ」


「さっきの人、気になったので」


 桐島のことだと、すぐにわかった。


「もう大丈夫です」


「念のためです」


 言い方は柔らかかった。


 でも、引かなかった。


 香帆はそれ以上、断れなかった。


 ――


 二人で改札を抜けた。


 ホームへ向かう階段を下りる。


 途中で、香帆は一度だけ後ろを振り返った。


 人の流れが続いているだけだった。


 桐島の姿はない。


 それでも、首の後ろに何かがかかっているような感覚は消えなかった。


 ――


 ホームは混んでいた。


 完全なラッシュではない。


 でも、密度がある。


 人の体温が近い。


 音が近い。


 匂いが混ざる。


 少しだけ、息苦しい。


 香帆は黄色い線より少し内側に立った。


 優斗は隣にいた。


 前を向いているようで、周囲を一度だけ見た。


 確認するように。


 それから何も言わなくなった。


 アナウンスが流れた。


 電車が近づいてくる。


 人の波が、じわりと前に動いた。


 背中に、力がかかった。


 人混みの圧力だと思った。


 でも違った。


 方向が、違った。


 前に――


 落ちる力だった。


 足が線を越えた瞬間、風が顔を叩いた。


 腕を掴まれた。


 体が引き戻される。


 背中が、彼の胸に当たった。


 電車が、すぐそこを通り過ぎた。


「大丈夫ですか」


 耳の近くで、声がした。


 腕を掴んだまま、離さない。


 誰もこちらを見ていなかった。


 人の流れは、乱れてさえいなかった。


 なのに、この人だけが――


 いてくれた。


「……はい」


 声がうまく出なかった。


 喉が乾いていた。


「混んでましたから」


 それだけだった。


 大げさにしない。


 騒がない。


 ただ、そこにいてくれる。


 香帆は息を整えた。


 心臓の音が、まだ大きい。


 腕に、さっきの感覚が残っている。


 押された感覚。


 引き戻された感覚。


 掴まれた感覚。


 ――


 次の電車を待つ間、二人は並んで立っていた。


 優斗は何も言わなかった。


 香帆も、何も言えなかった。


 さっきの出来事が、まだ整理できていなかった。


 ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。


 あれは、偶然じゃない。


 電車が来た。


 今度は優斗が、香帆の真後ろに立った。


 背中を、塞ぐように。


 人の流れが近づくたびに、自然に壁になる位置だった。


 香帆はそのことに気づいて、胸の奥が少しだけ緩んだ。


 乗り込む直前、優斗が言った。


「また会いましょう」


「……はい」


 扉が閉まる。


 優斗はホームに立ったまま、香帆を見送っていた。


 電車が動き出しても、その姿はしばらく見えていた。


 ――


 帰宅して、ドアを閉めた。


 鍵をかける。


 チェーンをかける。


 それでも、安心できなかった。


 スマートフォンを取り出す。


 美咲からメッセージが来ていた。


 『食事どうだった?』


 香帆は、しばらく画面を見つめた。


 指が、少しだけ震えていた。


 やがて、打った。


 『また会うと思う』


 送信する。


 画面を閉じる。


 部屋は静かだった。


 でも、さっきの感覚だけが、消えなかった。


 誰かが、押した。


 その事実だけが、残っていた。

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