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適距離

 

 金曜日の昼休み、桐島が香帆のデスクに来た。


 笑顔だった。


 その笑顔が、気味悪かった。


「中村さん、今夜どう? この前話してた店、予約取れたんだけど」


 いつもと同じ声だった。


 軽くて、親しげで、断りにくい距離。


「すみません、今日は予定があって」


「そうか。じゃあ来週は」


 食い下がる言い方ではなかった。


 でも、引いている感じでもなかった。


 次がある前提の言い方だった。


 香帆は曖昧に笑って、画面に視線を戻した。


 それでも、桐島は動かなかった。


 デスクの横に立ったまま、香帆の横顔を見ている。


 視線を感じた。


 強くはない。


 ただ、外れない。


 蜘蛛の糸みたいに。


 細く、しぶとく。


「中村さん、最近顔色いいね」


「そうですか」


「うん。なんか、いいことあった?」


 少しだけ、間があった。


 答えを待っている間だった。


 ただの雑談のはずなのに、答え方を間違えると何かを見透かされる気がした。


「特にないです」


 桐島は、数秒そのまま立っていた。


 やがて、ふっと笑った。


「そっか」


 それだけ言って、自分の席に戻っていった。


 足音が遠ざかる。


 それを確認してから、香帆は小さく息を吐いた。


 同期で隣の席の原川が、キーボードを打つ手を止めて言った。


「また来たね」


「うん」


「なんかさ、あの人」


 原川が言いかけて、やめた。


「……いや、いいや」


 それ以上は言わなかった。


 でも、その「言わなさ」が、かえって引っかかった。


「今日ほんとに予定あるの?」


「ある」


 原川が少し驚いた顔をした。


 香帆はそれ以上説明しなかった。


 予定、というほどのものではない。


 でも、桐島から離れられる理由があることに、ほっとしていた。


 ――


 加藤優斗から連絡が来たのは、飲み会から三日後だった。


 『先日はありがとうございました。部屋探しの件、よろしければお手伝いします。』


 短く、丁寧な文面だった。


 営業らしい押しつけがない。


 香帆はしばらく画面を見てから、返信した。


 『お願いします。』


 ――


 待ち合わせは土曜の午後、駅前の不動産会社だった。


 ガラス張りの店内に入ると、優斗はすでにカウンターの奥に立っていた。


 こちらに気づいて、軽く会釈する。


 無駄のない動きだった。


「お待たせしました」


「いえ、大丈夫です」


 優斗は、希望条件をまとめた資料を差し出した。


「三件見られるように調整しました。順番はこっちから回った方が効率がいいので、そうしていいですか」


 香帆は頷いた。


 迷いがなかった。


 普通なら、もう少し確認するはずなのに。


 まるで、最初から決まっていたみたいに――


 香帆はその考えを、すぐに流した。


 ――


 社有車の中は静かだった。


 一件目を見終わって、移動中。


「オートロックは必須でしたよね」


「はい」


「さっきのは鍵の交換履歴が不明でした。候補から外した方がいいと思います」


 迷いのない言い方だった。


 断定。


 でも、押しつけではない。


「ありがとうございます」


「仕事ですから」


 それだけだった。


 余計な言葉はない。


 でも、見ている場所が、違った。


 ――


 二件目の物件。


 玄関を開けた瞬間、優斗が一瞬だけ動きを止めた。


 ほんの一秒にも満たない間。


 でも、確かに止まった。


 視線が、ドアに向く。


 鍵。


 ドアスコープ。


 玄関の内側。


 順番に、確認するように動いた。


「玄関灯、センサー式ですね」


 静かに言った。


「夜、帰りが遅くなることもあると思って」


 それだけだった。


 でも、その言い方が少しだけ引っかかった。


 「防犯」という言葉を使わないのに、そこを見ている。


 入る側ではなく、


 入られる側を知っている目だった。


 香帆は、その考えを飲み込んだ。


 優斗の横顔を見た。


 それだけで、十分だった。


 ――


 三件目を見終わる頃には、日が傾いていた。


「迷ってます」


「無理に決めなくていいです」


 優斗は即答しなかった。


 一拍置いてから言った。


「条件的に、この物件はすぐ埋まる可能性はありますけど」


 選ばせている。


 でも、逃げ道は塞いでいる。


 その距離感が、ちょうどよかった。


 駅まで送ってもらった。


 別れ際。


「今日、ありがとうございました。もしよかったら、お礼に食事でも」


 口に出してから、少しだけ後悔した。


 でも優斗は、迷わなかった。


「じゃあ、来週」


 短い返事だった。


 それ以上でも、それ以下でもなかった。


 ――


 車が走り去る。


 香帆は一人で駅に入った。


 階段を下りる。


 その途中で、違和感があった。


 足音。


 自分のものと、重なっている。


 一段、降りる。


 もう一段。


 同じタイミングで、音が続く。


 振り返る。


 誰もいない。


 でも。


 さっきまで、確かにいた。


 そう思った瞬間、足が速くなった。


 ――


 部屋のドアを開けた。


 鍵を閉める。


 チェーンをかける。


 靴を脱ぐ。


 一歩、踏み出す。


 止まる。


 違う。


 何かが、違う。


 視線が引き出しに向く。


 開ける。


 ヘアピンが、あった。


 新聞の切り抜きも、ある。


 何も、なくなっていない。


 それなのに、違う。


 証拠はない。


 形もない。


 ただ、ここに誰かがいた。


 そのとき、通知が鳴った。


 優斗からだった。


 『あの後、大丈夫でしたか』


 画面を見つめたまま、動けなかった。


 タイミングが、良すぎた。


 ――それでも、返信した。


 部屋は静かだった。


 でも、さっきまでここに誰かがいたという感覚だけが、まだ残っていた。


 次は――


 入ってくるかもしれない。

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