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出会い


 あれから九年。


 同じ七月の夜だった。


 目が覚めた理由が、わからなかった。


 エアコンはついている。部屋は涼しい。音もない。


 なのに、体の奥だけが熱かった。


 見られている。


 その感覚だけが、はっきりあった。


 香帆はゆっくりと目を開けた。


 天井。壁。カーテン。


 何もない。


 わかっている。誰もいない。


 それでも、確実に「誰か」の気配が残っていた。


 息を止めて、耳を澄ます。


 何も聞こえない。


 それでも、視線だけが消えない。


 香帆は体を起こした。


 カーテンに手をかける。


 一瞬、迷う。


 開けたら、何かいる。


 それでも、開けた。


 夜の街が広がっていた。


 光だけが、遠くに並んでいる。


 誰もいない。


 当たり前だった。


 香帆はそのまましばらく立っていた。


 やがて、ゆっくりとカーテンを閉めた。


 窓ガラスに、自分の背後が映った。


 その輪郭の端で、何かが揺れた。


 振り返る。


 誰もいない。


 でも体が、知っていた。


 確かにいた、と。


 ――


 その夜は、眠れなかった。


 九年という時間が何かを癒したかと言えば、そうではない。


 ただ、痛みの形が変わっただけ。


 鋭く刺さっていたものが、いつの間にか鈍く、重く、体の底に沈んでいた。


 真紀の命日が近づくたびに、あの夜が戻ってくる。


 蒸し暑さ。時計の音。母の呼吸。誰かに見られている感覚。


 それだけは、消えなかった。


 ――


 鏡の前で、三回目の着替えをしていた。


 黒髪が、肩より長く垂れている。


 ネイビーのワンピース。ベージュのブラウス。


 どちらもベッドの上に放り出されている。


 別に、どちらでもいい。


 そう思いながら、決められない。


 スマートフォンが鳴った。


 美咲からだった。


 『もう出た? 遅れないでね。』


 返信しようとして、止まる。


 行きたくないわけじゃない。


 でも、行く理由も、ない。


 このドアを開けたら、何かが変わる気がした。


 その「何か」がわからないまま、立ち尽くしていた。


 絵里からもメッセージが来ていた。


 『もう出た?』


 それだけ。


 余計な言葉がない。


 絵里は、無理に引っ張らない。


 だから断れない。


 一回だけ。


 そう自分に言い聞かせて、最初に手に取ったネイビーのワンピースに袖を通した。


 ――


 店は、渋谷から少し外れたビルの地下にあった。


 階段を下りる前に、香帆は振り返った。


 人の流れ。


 それだけ。


 誰かの視線が、首筋に触れた。


 九年前から、ずっと。


 息を吐いて、階段を下りる。


 空気が変わる。


 人の声と料理の匂いが混ざる。


 その中に入ると、さっきの感覚が少しだけ薄れた。


 美咲が手を振っていた。


 いつも通りの愛嬌ある笑顔で。


 昔と変わらない。


「遅い」


「ごめん」


「まあいいけど。みんないい人たちだから、リラックスして」


 リラックスして、という言葉ほど人を緊張させるものはない。


 香帆は笑って、席に向かった。


 テーブルには三人。


 一人は田中鉄也。


 美咲の彼氏で、今日の集まりを作った人間だ。


 もう一人は北村。


 場を回すのがうまいタイプだった。


 そして。


 最後の一人が、グラスを置いた。


 音がしなかった。


 整った顔。


 穏やかな目。


 でも香帆が引き寄せられたのは、そのどちらでもなかった。


 この店の中で、一点だけ揺れない場所があった。


「加藤優斗です。田中さんの後輩で、同じ会社です」


 愛想がない。


 場を埋めようとしない。


 ただ、そこにいる。


 香帆はそれを、安心と呼ぶことにした。


 まだ、そのときは。


 ――


 気づくと、美咲と絵里が席を外していた。


 田中と北村は別の話をしている。


 残されたのは、香帆と優斗だけだった。


 沈黙が落ちる。


 不思議と、居心地は悪くなかった。


「楽しくないですよね」


 優斗が言った。


 唐突だった。


 でも、正確だった。


「……そんなに顔に出てましたか」


「俺もです」


 短いやり取りだった。


 でも、香帆は少し笑った。


 それが、自分でも少し怖かった。


 優斗も、ほんの少しだけ口元を動かした。


 美咲が戻ってきた。


 わざとらしい間を空けて。


「加藤さん、実は香帆が引っ越し考えてて」


 話が、急に具体的になった。


 自然な流れではなかった。


 でも、誰も違和感を口にしない。


「鉄也も手伝ってるんですけど、いい物件なくて」


 田中が頷く。


 優斗は少しだけ間を置いた。


 何かを計算するような、短い沈黙だった。


「……わかりました」


 引っかかった。


 でも香帆は、考えすぎだと思うことにした。


 ――


 帰り道。


 ポケットの中で、名刺の角を指でなぞる。


 加藤優斗。


 名前を、なぞる。


 九年間。


 ずっと、誰かと話すたびに距離を測っていた。


 あの人と話しているとき、それをしていなかった。


 その夜、帰宅してドアを閉めたとき、ふと思った。


 あの店に入る前、振り返ったとき。


 本当に、誰もいなかったのか。

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