表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/37

はじまりの七月


 七月の夜は、やけに蒸し暑かった。


 窓の外には風がなく、街路樹の葉も、ぴたりと動きを止めていた。遠くで鳴いていたはずの虫の声さえ、いつの間にか途切れている。


 それだけが、はっきりと残っている。


 その頃から、妙な感覚があった。


 誰かの視線が、首の後ろに貼り付いていた。


 振り返るたび、そこには何もない。


 それでも、その感触だけは剥がれなかった。


 気のせいだと思っていた。


 このときは、まだ。


 ほかの記憶は、あとから形を与えられたもののように曖昧なのに、その夜の空気だけは、皮膚にまとわりつくように生々しく残っている。


 エアコンの効いたリビングで宿題をしていたのに、なぜか汗が止まらなかった。


 冷たいはずの風が、肌の上を滑っていくだけで、体の奥の熱はまるで逃げていかない。


 体だけが、何かを知っていた。


 ペンを握る手が、じっとりと湿っていた。


 指先が滑って、数字の線がわずかに歪む。


 そのたびに書き直して、また歪んで、さらに書き直す。


 シャープペンの芯が紙に引っかかる音が、やけに耳につく。


 集中できない理由が、そのときはわからなかった。


 ただ、胸の奥に小さな違和感があって、それがじわじわと広がっていくのを、どうすることもできなかった。


 午後十時を過ぎても、真紀は帰ってこなかった。


 時計の針が一分進むたびに、部屋の空気が重くなった。


 普段なら気にも留めない時間の流れが、その夜はやけに遅く、確かに感じられた。


 母はダイニングテーブルの前に座り、携帯を握りしめていた。


 その手は強く力が入っていて、白くなった指先が、かすかに震えている。


 繋がらない。


 規則正しいコール音が、やけに無機質で、冷たい。


 また鳴る。繋がらない。


 切って、かけて、また切って。


 同じ動作を繰り返すたびに、母の呼吸が浅くなっていく。


 その音が、妙に大きく聞こえた。


 テレビの音も、エアコンの風音も、そのコール音に押しのけられるように遠のいていく。


 父はソファでテレビをつけていたが、リモコンを持ったまま、画面を見ていなかった。


 ニュース番組のキャスターが何かを話しているのに、その言葉は意味を結ばず、ただの音として流れているだけだった。


 香帆は二人を交互に見て、また問題集に目を落とした。


 視線を落とせば、いつも通りの夜に戻れる気がしたからだ。


 でも、文字が頭に入ってこなかった。


 数字はただの記号になり、問題文は意味を持たない線の並びにしか見えなかった。


 真紀は、いつも門限を守る人だった。


 高校二年生になっても、夕飯には必ず間に合わせてくる。


 玄関のドアが開く音と、「ただいま」という声が、ほぼ同じ時間に聞こえる。


 それが当たり前だった。


 だから、母が何度電話をかけても繋がらないとき、香帆の胸の奥で何かが少しずつ、音もなく崩れていった。


 それは大きな崩壊ではなく、細いひびがゆっくり広がっていくような、不気味な感覚だった。


 まだ大丈夫だと思いたい気持ちと、もう戻らないのではないかという予感が、同時に存在していた。


 ふと、玄関の方に意識が引かれた。


 ――何かが、いる。


 音はしなかった。


 足音も、気配も、はっきりとはわからない。


 でも、ドアの向こうに、誰かが立っているような感覚だけがあった。


 香帆はペンを止めた。


 耳を澄ませる。


 何も聞こえない。


 それでも、そこに「ある」気がした。


 視線を向ける。


 廊下の先、玄関の扉は閉まったままだった。


 動かない。


 ただ、そこにあるだけ。


 そう決めようとした。


 そのときだった。


 チャイムが、鳴った。


 体が先に動いた。


 椅子を引く音が、自分のものだと気づくのに一瞬かかった。


 ――真紀だ。


 でも、真紀は押さない。合鍵がある。


 その矛盾が胸に刺さったまま、香帆は廊下に立っていた。


 母が香帆の横を、ゆっくり通り過ぎた。


 いつもより、遅かった。


 まるで、扉の向こうにあるものを、すでに知っているかのように。


 ドアが、開く。


 警察官が二人、立っていた。


 その奥に――


 何かがいた。


 人の形をしていたのか、ただの夜の濃さだったのか。


 今でも、わからない。


 母の声が、した。


 言葉は聞こえなかった。


 でも、それだけで全部わかった。


 その瞬間、香帆の中で何かが音もなく落ちた。


 ――


 真紀は、近くの河川敷で発見された。


 後頭部を強く打っていた。


 死因は、頭部への外傷による脳挫傷。


 現場に残された足跡と、真紀の携帯の通話履歴から、交際相手の少年がすぐに浮かんだ。


 名前は、水島涼介。


 真紀と同じ高校に通う、十七歳だった。


 涼介は何度も家に来ていた。


 真紀がいないときでも、香帆の話を聞いてくれたことがあった。


 涼介には弟がいた。


 その弟のことを、真紀はよく話してくれた。


 本当の弟みたいだと、嬉しそうに。


 一度だけ、四人でプールに行ったこともある。


 その日の涼介は、よく笑っていた。


 悪い人だと思ったことは、一度もなかった。


 だから余計に、信じられなかった。


 あの優しさは、何だったのか。


 香帆の話を、あんなに丁寧に聞いてくれた。


 それが全部、嘘だったというのか。


 真紀が死んだことへの悲しみと、涼介への裏切られた気持ちが、胸の中で絡まって、どちらが本当の痛みなのかも、わからなかった。


 新聞には、動機は別れ話のもつれと書かれていた。


 本当にそれだけで、人は人を殺すのか。


 香帆はその記事を、こっそり切り抜いて引き出しの奥にしまった。


 誰にも見られないように、何度も折りたたんで、奥へ奥へと押し込む。


 ――


 涼介は逮捕された。


 未成年だったため、ニュースは名前を伏せたまま事実だけを伝え、すぐに別の話題へと移っていった。


 少年A、という三文字だけが、画面の中で光った。


 その三文字が、香帆には耐えられなかった。


 お姉ちゃんを殺した人間には、ちゃんと名前がある。


 水島涼介という、確かな名前が。


 それなのに、世界はその名前を知らないまま、次へと進んでいく。


 それだけが、香帆にとってのかすかな区切りのように感じられた。


 終わったわけではないのに、「終わったこと」にされていく。


 ――


 葬儀の日、香帆は泣かなかった。


 泣き崩れる母の隣で、ただ棺の中の真紀を見ていた。


 白い花に囲まれたその姿は、現実から切り離されたもののように見えた。


 真紀の顔は、眠っているみたいに穏やかだった。


 今にも目を開けて、「なに見てるの」と笑いそうなほどに。


 だから余計に、現実に思えなかった。


 二十歳になったら、一緒に飲もうと言っていた。


 まだ遠い未来のはずだった約束が、急に形を失った。


 先月、誕生日プレゼントにヘアピンをもらったばかりだった。


 薄いピンク色の、小さな花の形をしたヘアピン。


 涼介と一緒に選んでくれたのだと、真紀が嬉しそうに言っていた。


 事件のあと、捨てようと思った。


 涼介も選んだものだから。


 でも、捨てられなかった。


 お姉ちゃんが選んだものでもあるから。


 光に当たると、かすかに透けるその色が、真紀らしかった。


 今も、引き出しの奥にある。


 新聞の切り抜きと、同じ場所に。


 真紀はもう、二十歳にはなれない。


 水島涼介。


 その名前だけは、忘れない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ