はじまりの七月
七月の夜は、やけに蒸し暑かった。
窓の外には風がなく、街路樹の葉も、ぴたりと動きを止めていた。遠くで鳴いていたはずの虫の声さえ、いつの間にか途切れている。
それだけが、はっきりと残っている。
その頃から、妙な感覚があった。
誰かの視線が、首の後ろに貼り付いていた。
振り返るたび、そこには何もない。
それでも、その感触だけは剥がれなかった。
気のせいだと思っていた。
このときは、まだ。
ほかの記憶は、あとから形を与えられたもののように曖昧なのに、その夜の空気だけは、皮膚にまとわりつくように生々しく残っている。
エアコンの効いたリビングで宿題をしていたのに、なぜか汗が止まらなかった。
冷たいはずの風が、肌の上を滑っていくだけで、体の奥の熱はまるで逃げていかない。
体だけが、何かを知っていた。
ペンを握る手が、じっとりと湿っていた。
指先が滑って、数字の線がわずかに歪む。
そのたびに書き直して、また歪んで、さらに書き直す。
シャープペンの芯が紙に引っかかる音が、やけに耳につく。
集中できない理由が、そのときはわからなかった。
ただ、胸の奥に小さな違和感があって、それがじわじわと広がっていくのを、どうすることもできなかった。
午後十時を過ぎても、真紀は帰ってこなかった。
時計の針が一分進むたびに、部屋の空気が重くなった。
普段なら気にも留めない時間の流れが、その夜はやけに遅く、確かに感じられた。
母はダイニングテーブルの前に座り、携帯を握りしめていた。
その手は強く力が入っていて、白くなった指先が、かすかに震えている。
繋がらない。
規則正しいコール音が、やけに無機質で、冷たい。
また鳴る。繋がらない。
切って、かけて、また切って。
同じ動作を繰り返すたびに、母の呼吸が浅くなっていく。
その音が、妙に大きく聞こえた。
テレビの音も、エアコンの風音も、そのコール音に押しのけられるように遠のいていく。
父はソファでテレビをつけていたが、リモコンを持ったまま、画面を見ていなかった。
ニュース番組のキャスターが何かを話しているのに、その言葉は意味を結ばず、ただの音として流れているだけだった。
香帆は二人を交互に見て、また問題集に目を落とした。
視線を落とせば、いつも通りの夜に戻れる気がしたからだ。
でも、文字が頭に入ってこなかった。
数字はただの記号になり、問題文は意味を持たない線の並びにしか見えなかった。
真紀は、いつも門限を守る人だった。
高校二年生になっても、夕飯には必ず間に合わせてくる。
玄関のドアが開く音と、「ただいま」という声が、ほぼ同じ時間に聞こえる。
それが当たり前だった。
だから、母が何度電話をかけても繋がらないとき、香帆の胸の奥で何かが少しずつ、音もなく崩れていった。
それは大きな崩壊ではなく、細いひびがゆっくり広がっていくような、不気味な感覚だった。
まだ大丈夫だと思いたい気持ちと、もう戻らないのではないかという予感が、同時に存在していた。
ふと、玄関の方に意識が引かれた。
――何かが、いる。
音はしなかった。
足音も、気配も、はっきりとはわからない。
でも、ドアの向こうに、誰かが立っているような感覚だけがあった。
香帆はペンを止めた。
耳を澄ませる。
何も聞こえない。
それでも、そこに「ある」気がした。
視線を向ける。
廊下の先、玄関の扉は閉まったままだった。
動かない。
ただ、そこにあるだけ。
そう決めようとした。
そのときだった。
チャイムが、鳴った。
体が先に動いた。
椅子を引く音が、自分のものだと気づくのに一瞬かかった。
――真紀だ。
でも、真紀は押さない。合鍵がある。
その矛盾が胸に刺さったまま、香帆は廊下に立っていた。
母が香帆の横を、ゆっくり通り過ぎた。
いつもより、遅かった。
まるで、扉の向こうにあるものを、すでに知っているかのように。
ドアが、開く。
警察官が二人、立っていた。
その奥に――
何かがいた。
人の形をしていたのか、ただの夜の濃さだったのか。
今でも、わからない。
母の声が、した。
言葉は聞こえなかった。
でも、それだけで全部わかった。
その瞬間、香帆の中で何かが音もなく落ちた。
――
真紀は、近くの河川敷で発見された。
後頭部を強く打っていた。
死因は、頭部への外傷による脳挫傷。
現場に残された足跡と、真紀の携帯の通話履歴から、交際相手の少年がすぐに浮かんだ。
名前は、水島涼介。
真紀と同じ高校に通う、十七歳だった。
涼介は何度も家に来ていた。
真紀がいないときでも、香帆の話を聞いてくれたことがあった。
涼介には弟がいた。
その弟のことを、真紀はよく話してくれた。
本当の弟みたいだと、嬉しそうに。
一度だけ、四人でプールに行ったこともある。
その日の涼介は、よく笑っていた。
悪い人だと思ったことは、一度もなかった。
だから余計に、信じられなかった。
あの優しさは、何だったのか。
香帆の話を、あんなに丁寧に聞いてくれた。
それが全部、嘘だったというのか。
真紀が死んだことへの悲しみと、涼介への裏切られた気持ちが、胸の中で絡まって、どちらが本当の痛みなのかも、わからなかった。
新聞には、動機は別れ話のもつれと書かれていた。
本当にそれだけで、人は人を殺すのか。
香帆はその記事を、こっそり切り抜いて引き出しの奥にしまった。
誰にも見られないように、何度も折りたたんで、奥へ奥へと押し込む。
――
涼介は逮捕された。
未成年だったため、ニュースは名前を伏せたまま事実だけを伝え、すぐに別の話題へと移っていった。
少年A、という三文字だけが、画面の中で光った。
その三文字が、香帆には耐えられなかった。
お姉ちゃんを殺した人間には、ちゃんと名前がある。
水島涼介という、確かな名前が。
それなのに、世界はその名前を知らないまま、次へと進んでいく。
それだけが、香帆にとってのかすかな区切りのように感じられた。
終わったわけではないのに、「終わったこと」にされていく。
――
葬儀の日、香帆は泣かなかった。
泣き崩れる母の隣で、ただ棺の中の真紀を見ていた。
白い花に囲まれたその姿は、現実から切り離されたもののように見えた。
真紀の顔は、眠っているみたいに穏やかだった。
今にも目を開けて、「なに見てるの」と笑いそうなほどに。
だから余計に、現実に思えなかった。
二十歳になったら、一緒に飲もうと言っていた。
まだ遠い未来のはずだった約束が、急に形を失った。
先月、誕生日プレゼントにヘアピンをもらったばかりだった。
薄いピンク色の、小さな花の形をしたヘアピン。
涼介と一緒に選んでくれたのだと、真紀が嬉しそうに言っていた。
事件のあと、捨てようと思った。
涼介も選んだものだから。
でも、捨てられなかった。
お姉ちゃんが選んだものでもあるから。
光に当たると、かすかに透けるその色が、真紀らしかった。
今も、引き出しの奥にある。
新聞の切り抜きと、同じ場所に。
真紀はもう、二十歳にはなれない。
水島涼介。
その名前だけは、忘れない。




