崩れる夜
「……え」
声が出なかった。
「水島涼介は」
慎吾が静かに言う。
「俺の兄です」
足元の感覚だけが、ゆっくり消えていく。
その名前に、遠い夏の景色が浮かぶ。
一度だけ、四人でプールに行ったことがある。
真紀。涼介。そして、真紀の後ろをついて歩いていた少年。
「……慎吾くん?」
かすれた声で言う。
男は小さく頷いた。
「水島慎吾です。あの頃は、まだ小学生でした」
あの夏の記憶が、遠くから戻ってくる。
ぬるい夜風が、頬を撫でた。
「……どういうこと」
声がうまく出なかった。
慎吾は静かに香帆を見た。
「兄を追ってました。出所してから、ずっと」
雨が静かに降っている。
「二年以上かかりました」
香帆は何も言えない。
「最初は保護観察の関係先を辿りました。それだけじゃ限界があって、途中から探偵も使った」
その言葉で、急に現実味が増す。
冗談で言っている顔じゃなかった。
「……出所して、すぐ?」
慎吾は首を横に振った。
「出所情報そのものは追えなかった。だから、出所後の足取りを探した」
街灯の光が、濡れた地面に滲んでいる。
「山梨の更生保護施設に入ってました。施設にいながら、近くでバイトをしていた」
一度、言葉を切る。
「そのバイト先を訪ねました。当時の事件を知ってる人間がいた」
慎吾の声が、少しだけ変わる。
「最初はピンと来なかったって言ってました。なんか聞いたことある名前だな、くらいで」
「その人、地元に戻ってから同窓会に出たそうです」
慎吾は静かに続ける。
「そこで昔の事件の話になって……兄の名前を思い出した」
香帆の喉が、ゆっくりと詰まる。
「兄が真面目に働いてるのも知ってたから、大ごとにはしなかったって」
慎吾は小さく息を吐く。
「それでも、直接兄に言いに行ったそうです。知ってる、でも黙っておく、って」
「……それで」
「兄は信用できると思っても、やっぱり危ないと判断したのか、施設もバイトも、すぐにやめた」
逃げた。
その言葉だけが、頭の中に残る。
「その人は深追いしなかったけど、地元の友達には話してしまった。そこから噂が少しずつ広がって、二年かけて熊野さんや香帆さんのご両親にも届いた」
「……名前は」
声が震えていた。
「分籍して、母方の姓に変えてます。加藤は、母親の旧姓です」
香帆は何も言えなかった。
「少年事件だったこともあって、地元で噂が広がり始めた時、このままでは普通に働けないと判断した。時間をかけて申請して、認められた」
「何年会ってなくても、顔を見れば分かると思ってました。でも、実際に見つけた時、別人みたいだった」
慎吾は一瞬だけ黙った。
「整形してるとしか思えなかった」
息がうまく吸えなかった。
優斗の顔が浮かぶ。
笑っていた顔。
名前を呼ぶ声。
全部が崩れていく。
「……前に会った時、証拠がないって言ってましたよね」
かすれた声で言う。
慎吾は頷いた。
「あの時点では、ほぼ兄だと思ってましたが、確証がなかった。今回、探偵が戸籍の流れを補強してくれました」
そこで初めて、慎吾の声が少しだけ揺れる。
「別人であってほしかった」
短い言葉だった。
「でも、調べるほど兄でした」
香帆は視線を落とす。
指先が震えていた。
「……なんで、私に」
慎吾は少しだけ黙った。
「最初は兄を追ってただけでした」
慎吾は一瞬だけ目を伏せた。
「でも、兄の近くにいるあなたを見た時、すぐ分かりました。真紀さんの妹だって」
息が止まる。
「あの時と、変わってなかった」
遠い記憶を見ているような声だった。
「それに」
一度、言葉を切る。
「兄があなたを見る目が、昔と同じだった」
香帆の呼吸が止まる。
「あの頃と同じだった」
十年前。
真紀を見ていた目。
「また同じことになると思った。だから、先にあなたに会いました」
香帆は何も言えなかった。
優斗の顔だけが浮かぶ。
笑っていた顔。
隣を歩いた時間。
優しかった声。
全部が、ゆっくり意味を変えていく。
「……兄は、あなたを探してました。最初は偶然だと思ってたけど、調べていくうちに分かった」
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
さっきまでの時間を思い出す。
改札。
雨の夜道。
背中に残っていた視線。
あれは。
「……さっき、駅で別れたあとも?」
慎吾は香帆を見た。
「兄は、いました。あなたを尾けてた」
慎吾は少しだけ黙った。
「……多分、俺にも気づいてた」
香帆の呼吸が止まる。
「兄は昔から、人の視線に敏感だった。だから、今日はもう接触してくると思ってました」
背中に残っていた視線が蘇る。
優斗だと思った。
でも、振り返らなかった。
「兄は、ずっとあなたを見てました」
慎吾は静かに続ける。
「出所してからも」
香帆は目を閉じた。
胸の奥が、ゆっくり壊れていく。
怖かった。
でも、それ以上に。
まだ、信じたかった。
慎吾は封筒を差し出した。
「全部入ってます」
受け取りたくなかった。
それでも、指が動いた。
「あなたが終わらせると決めた時、連絡してください」
慎吾の声は静かだった。
「俺も、終わらせたい」
それだけ言って、慎吾は歩き出す。
止められなかった。
雨の中に背中が消えていく。
香帆は、その場に立ち尽くしていた。




