表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/40

最終話  名前を呼んだ


 七月の週末だった。


 夜の川沿いは静かで、水面に街灯の光が揺れている。


 去年の夏、優斗と並んで歩いた道だった。


 あの頃は、こんな日が来るなんて思っていなかった。


――


 前日の夜、慎吾に連絡した。


『終わらせます』


 短く送る。


 すぐに返信が来た。


『一人で行かないでください』


 香帆は、しばらく画面を見つめたあと、ゆっくり打ち込む。


『誰かいると、来ないと思う』


 既読がつく。


 少しだけ間が空いた。


『……分かりました』


 それだけ返ってきた。


――


 ベンチの前に立つ。


 川の音だけが続いている。


 足音が近づく。


 優斗だった。


「待たせた?」


 いつもと同じ声だった。


「……ううん」


 香帆は小さく首を振る。


 隣に立つ。


 その距離だけで、胸が苦しくなる。


「話って?」


 香帆は、ゆっくり息を吸った。


「……水島涼介って、知ってる?」


 優斗は答えなかった。


 その沈黙だけで、分かってしまう。


「……誰それ」


 遅れて、そう言った。


「嘘だよね」


 川の音だけが流れる。


 優斗は少しだけ目を伏せた。


「……どこまで知ってる」


 低い声だった。


「全部。戸籍も見た」


 優斗は短く息を吐く。


「……そうか」


 一度だけ頷く。


「……そうだ」


 認めた。


 分かっていたはずなのに、言葉にされた瞬間、現実になる。


 足元が崩れる。


「どうして、お姉ちゃんを……」


 声が震える。


 優斗はすぐには答えなかった。


 川を見たまま、小さく息を吐く。


「真紀と付き合ってた頃、いつからか、お前を見てた」


 呼吸が止まる。


「何度も会ってた。普通に話してた。なのに、ある時、気づいた。真紀じゃなくて、お前を見てる」


 十年前の夏が、頭の奥で蘇る。


 真紀の隣で笑っていた優斗。


 あの日の景色。


「でも、真紀も嫌いじゃなかった。だから、そのまま付き合ってた」


「……じゃあ、どうして」


 声がかすれる。


「熊野が好きだって言われた。別れたいって。別れたら、お前に会えなくなると思った。それが嫌だった」


 理解できない。


 理解したくない。


「そんな理由で……お姉ちゃんは死ななきゃいけなかったの?」


 優斗は答えない。


 少しだけ黙ったあと、


「……気づいたら、動かなくなってた」


 それだけだった。


 答えになっていなかった。


 でも、これ以上聞けなかった。


「真紀を殺したあと、お前の家の前まで行った」


 優斗は川を見たまま言う。


「最後に、お前の顔が見れるかと思った」


 香帆の呼吸が止まる。


 警察官の向こうに感じた、あの視線。


 あれは、優斗だったのか。


「……出所してから、どうしてた?」


「出所してすぐは、金もなかった。働きながら、お前を探してた」


 香帆は何も言えなかった。


「見つけた時、すぐ分かった」


 優斗の視線が香帆に向く。


「あの頃のままだった」


「そのあと、美咲や田中、お前の周りが分かってきた」


 優斗は静かに続ける。


「だから、田中と同じ会社に入った」


 去年の夏。


 無理やり連れて行かれた飲み会。


 ――偶然だったはずの出会い。


「いきなり近づけば、お前は警戒する」


 一度、川を見る。


「だから、偶然を作った」


「飲み会をやるように仕向けた」


 優斗は少しだけ目を伏せる。


「でも、それだけじゃ足りなかった」


 呼吸が浅くなる。


「もっと、お前の中に残りたかった」


「ホームで突き落としたのも、俺だ」


 香帆の呼吸が止まる。


「……助けたのも」


 優斗は小さく頷いた。


「お前に、俺を忘れてほしくなかった」


「……まだ持ってたんだな、あのヘアピン」


 香帆の呼吸が止まる。


 引き出しの中。


 少しだけ向きが変わっていたヘアピン。


 ――あの日。


 誰かが部屋に入った気がした。


 背筋が冷える。


「……最近、会ってただろ。熊野と。店で、昼間」


「……なんで知ってるの」


「一緒にいるところ見てた。顔見たら、熊野ってすぐ分かったよ」


 血の気が引く。


 あの時間まで。


 見られていた。


「また来るようなら消すつもりだった。でもあれ以降、お前と会う様子もなかった。だから何もしていない」


 息が苦しい。


「……美咲は」


 香帆の声が震える。


「美咲も、あなたが」


 優斗は少しだけ黙った。


「……気づいてた」


 静かな声だった。


「俺のこと、調べてた」


「まさか、あそこまで辿るとは思わなかった」


 一度、目を伏せる。


「バレる前に止めた」


「……拓海は」


 優斗は少しだけ視線を逸らした。


「あの幼馴染か。勘が良かった。酒で潰して、階段から突き落とした」


「……桐島さんは」


 川の音だけが続く。


「お前、嫌がってただろ。食事に誘われるのも。近づかれるのも」


 優斗は香帆を見た。


「あいつがいると、お前が笑わなくなった」


 一度、目を伏せる。


「だから消した」


 頭が真っ白になる。


 そんな理由で。


 そんな理由だけで。


「どうして……」


 声が震える。


「お前が笑ってるのを見ると、安心した」


 優斗は静かに言う。


「でも、誰かといるのを見ると駄目だった。壊したくなった」


 一歩、近づく。


「……それでも、お前だけは壊したくなかった」


 何も、理解できなかった。


「……私は、あなたを許さない」


 震えながら言う。


「あなたは、私の大事なものを壊した。お姉ちゃんも。美咲も」


 声が震える。


「だから、自首して」


 優斗は何も言わなかった。


 ただ、香帆を見ていた。


「お前しかいない」


 一歩、近づく。


 その瞬間だった。


 背後に、影が重なった。


 次の瞬間。


 鈍い音。


 優斗の身体が、わずかに揺れる。


 時間が止まったみたいだった。


 ゆっくりと、優斗が振り返る。


 慎吾が立っていた。


 ナイフが深く刺さっている。


 慎吾の肩も、呼吸も、小さく震えていた。


「……覚えてるか」


 低い声だった。


 川の音だけが続く。


「慎吾だ」


 優斗は、しばらく何も言わなかった。


 血が静かに落ちていく。


 やがて、少しだけ目を細める。


「……ああ」


 短かった。


 それだけだった。


 慎吾の呼吸が乱れる。


「俺の人生も。母さんも。全部、お前が壊した」


 十年間、押し込めていたものが滲む。


「真紀さんも」


 優斗は何も言わない。


 否定もしない。


 川風が吹く。


 血の匂いが混ざる。


 慎吾の目が揺れていた。


 怒りだけじゃない。


 もっと長い時間を抱えた目だった。


 慎吾は、ゆっくりナイフから手を離した。


 優斗の身体が、わずかによろめく。


「……一人で来ちゃ駄目って、言いましたよね」


 慎吾の声は震えていた。


「でも」


 一度、優斗を見る。


「これで終わります」


 香帆は動けなかった。


「俺、警察行きます」


 慎吾はそれだけ言うと、静かに歩き出した。


 雨の中に、背中が消えていく。


 優斗の膝が、ゆっくり崩れる。


 香帆の呼吸が止まる。


 倒れ込む身体を、反射的に支えていた。


 優斗が、かすかに目を開く。


 唇が動く。


 声にはならない。


 ――香帆。


 分かってしまった。


 涙が溢れる。


 止まらない。


 全部、嘘だった。


 それでも。


 優斗といた時間まで、消えるわけじゃなかった。


「優斗!」


 震えていた。


 それでも、はっきりと。


 優斗の目が揺れる。


 川の音だけが続いている。


 その目が、ゆっくり閉じていく。


 もう、戻らない。


 何も。


 それでも――


 名前を呼んだあの瞬間だけは、消えなかった。


――


 十年前の七月。


 姉が死んだ。


 去年の七月。


 優斗と出会った。


 そして、今年の七月。


 全部が終わった。


 七月が来るたび、きっと思い出す。


 優斗のことも。


 姉のことも。


 消えることはない。


 それでも――


 私は、生きていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ