途切れない雨
あの男に声をかけられてから、三週間ほどが過ぎていた。
気のせいだと思おうとしていた。
でも、一度知ってしまった感覚は戻らなかった。
梅雨の雨は、その間もずっと続いていた。
――
その日の夜、優斗と会った。
駅近くの店に入る。
窓ガラスに、細い雨粒が流れていた。
向かいに座る優斗は、いつも通りだった。
落ち着いた表情。
柔らかい声。
それだけで、少しだけ安心してしまう自分がいる。
「最近、帰り遅い日多いよな」
料理を待ちながら、優斗が言った。
「そう?」
「この前も九時過ぎだっただろ」
一瞬、言葉が止まる。
その言い方が、少しだけ引っかかった。
でも、すぐに打ち消した。
「この前の人、また会ったんだよね」
香帆が言うと、優斗の視線が静かに止まった。
「……うん」
「何か言われた?」
「気をつけろって」
少し迷ってから、続ける。
「人を殺してる、って」
優斗はすぐには答えなかった。
グラスに触れた指先が、ほんのわずかに止まる。
「誰が?」
「分からない」
香帆は首を振る。
「聞いても教えてくれなかった」
「どんなやつだった?」
「二十代くらい……だと思う」
「一人だった?」
「しばらく、一人で帰るな」
静かな声だった。
「帰り、合わせる」
「え?」
「残業ある日も連絡して」
当たり前みたいに言う。
「でも……」
「何かあってからじゃ遅い」
声は穏やかだった。
でも、拒まれることを前提にしていない。
香帆は少し迷って、小さく笑った。
「大丈夫だよ」
「近いし」
優斗はすぐには頷かなかった。
数秒だけ沈黙が落ちる。
やがて、小さく息を吐いた。
「……着いたら連絡して」
――
店を出ると、雨はまだ降っていた。
優斗の傘に入る。
肩が触れそうなくらい距離が近い。
でも、会話はほとんどなかった。
雨音だけが続く。
改札が見えてくる。
「ここでいい?」
「うん」
香帆は頷く。
「ありがとう」
「着いたら連絡して」
「分かった」
それだけ言って、香帆は改札へ向かった。
人の流れに紛れながら、階段を下りる。
途中で、ふと背中に視線を感じた。
優斗だろうかと思う。
でも、振り返らなかった。
――
マンションへ向かう道は、人通りが少なかった。
雨は弱くなっている。
街灯の光が、濡れた地面に滲んでいた。
「……香帆さん」
下の名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
振り返る。
あの男だった。
前に声をかけてきた男。
街灯の下に立っている。
「……何ですか」
一歩だけ距離を取る。
男は近づかなかった。
「加藤優斗のことで話があります」
その名前が出た瞬間、呼吸が浅くなる。
「……何の話ですか」
男は、まっすぐ香帆を見た。
「その名前、本当じゃない」
少しだけ間が空く。
「水島涼介って、聞いたことありませんか」
香帆は、息を止めた。
九年前。
姉を殺した男の名前だった。
一度も、忘れたことのない名前。




