消えない顔
あの男と会ってから、一週間が過ぎていた。
それでも、あの感覚だけが、消えなかった。
振り返れば、誰もいない。
それでも、視線だけが残る。
気のせいだと思えば、それで終わるはずだった。
でも、一度じゃなかった。
二度、三度と重なると、もう無視はできなかった。
その日も、仕事を終えて駅に向かっていた。
人の流れに紛れながら歩く。
ふと、足が止まる。
まただ、と思った。
背中の奥が、ゆっくりと冷えた。
見られている。
ゆっくりと振り返る。
人がいるだけだった。
スーツ姿の男や、学生らしい人たち。
誰もこちらを見ていない。
それでも、確かにあったものが消えない。
息を吐く。
歩き出そうとした、そのときだった。
「中村さん」
聞き覚えのある声だった。
体が、先に反応した。
ゆっくり振り返る。
あの男だった。
前と同じ男だった。
人の流れの中に立っているのに、そこだけが静止しているみたいだった。
「……この前の」
男は小さく頷く。
「少しだけ、いいですか」
前と同じ言い方だった。
でも、今回は違うと分かった。
逃げるべきか、一瞬迷う。
それでも、動けなかった。
「何ですか」
距離を保ったまま答える。
男も近づかない。
「前に言ったこと、忘れないで」
短い言葉。
同じだった。
でも、それで終わらせるつもりなのが分かる。
「待ってください」
自分でも驚くくらい、声がはっきりしていた。
男の視線が止まる。
「この前も言ってましたよね」
一歩だけ踏み出す。
「誰のことなんですか」
目を逸らさずに言う。
男は、すぐには答えなかった。
やがて、口を開いた。
「……あいつは、人を殺してる」
香帆は、言葉を返せなかった。
「……え?」
言葉の意味は分かる。
でも、それが今、自分に向けられているという実感がなかった。
「何の話ですか」
すぐに聞き返す。
声が少しだけ上ずっていた。
男は視線を逸らさなかった。
「証明はできない」
静かに言う。
「でも、間違いない」
迷いのない声だった。
「だから言ってるんです」
一拍置く。
「関わらないでください」
その言葉が、さっきとは違う意味で響く。
ただの警告じゃない。
知っている人間の言い方だった。
「誰なんですか」
もう一度聞く。
今度は、強く。
「誰のこと言ってるんですか」
男は一瞬だけ迷った。
その顔が、初めて揺れた。
でも、すぐに消える。
「……今は言えない」
低く言う。
「でも――」
そこで一度、言葉を切る。
香帆をまっすぐ見る。
「もう、会ってます」
心臓が、大きく跳ねた。
頭の中で、ばらばらだったものが一瞬だけ並ぶ。
頭の中に、いくつかの顔が浮かぶ。
でも、一つだけ消えなかった。
優斗。
すぐに打ち消す。
違う。
そんなはずない。
考える前に、否定していた。
「……誰のことですか」
声が少しだけ弱くなる。
男は答えなかった。
それ以上は踏み込まないと決めたように、視線を外す。
「とにかく、関わらないで」
それだけ言って、歩き出す。
止める間もなかった。
人の流れに紛れて、すぐに見えなくなる。
その場に立ち尽くす。
頭の中が、うまくまとまらない。
さっきの言葉が、何度も繰り返される。
人を殺している。
もう会っている。
知っている人間。
現実感がなかった。
そんな話が、急に目の前に出てくること自体がおかしかった。
信じられるはずがない。
それなのに。
胸の奥に、ひとつだけ残る。
優斗の顔。
あの日の駅。
あの距離。
あの手。
あの違和感。
全部が、一瞬だけ繋がりかける。
強く首を振る。
違う、と思った。
そんなはずない、と。
でも優斗は――そこで思考が止まる。
続きを考えたくなかった。
息を吐く。
周囲の音が戻ってくる。
人の流れも、いつも通りだった。
何も変わっていない。
でも。
さっきまでとは、確実に違っていた。
無視できないものが、そこに残っていた。
優斗の名前を、続けて考えられなかった。




