割り込んだ声
数日後の昼休み、香帆はオフィスの外に出た。
建物の裏手にある細い通路は、人が少なかった。
スマートフォンを取り出して、画面を見る。
特に用事があるわけではなかった。
ただ、じっとしているのが落ち着かなかった。
昨日の電話が、頭から離れなかった。
両親の言葉は、どこか噛み合っていなかった。
人づてに聞いたと言いながら、噂だと切り捨てる声。
はっきりしないまま、強く止めてきたあの感じ。
思い出すたびに、どこかが引っかかった。
それを振り払うように、画面を閉じる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
優斗からだった。
『今、外?』
短いメッセージ。
少しだけ迷ってから、返信する。
『うん』
すぐに既読がつく。
『近くにいる』
その一言に、手が止まった。
“近く”という言い方が、やけに正確すぎる気がした。
思わず周りを見回す。
通路の先に、人影が見えた。
優斗だった。
いつもと同じ表情で、こちらに向かって歩いてくる。
どこにいたのか、聞けなかった。
「珍しいね、こんなところで」
優斗が軽く笑う。
「ちょっと外に出たくなって」
「そっか」
それ以上は深く聞いてこなかった。
隣に立つ。
「大丈夫?」
優斗が言う。
昨日と同じ言葉だった。
でも、昨日よりも近くで聞こえる。
「うん」
頷く。
それ以上は言わなかった。
言えなかった、という方が近い。
優斗はそれ以上踏み込んでこなかった。
少しだけ、どうでもいい話をする。
仕事のこと。
昼休みのこと。
いつもと変わらないやり取りだった。
その時間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
しばらくして、優斗が言う。
「じゃあ、戻る」
「うん」
短く答える。
そのまま、優斗は先に歩き出した。
背中を見送る。
いつも通りだった。
そう思った。
そう思ったはずだった。
少しだけ間を置いて、香帆も歩き出す。
通路を抜けて、表に出る。
人の流れに混ざる。
その中で、ふと足が止まった。
振り返る。
人がいるだけだった。
特別な何かは見えない。
でも、背中の奥が、またざわついた。
誰かが、見ていたような。
理由は分からない。
ただ、そう感じた。
気のせいだと思おうとする。
でも、一度意識すると消えなかった。
そのままオフィスに戻る。
席に座る。
パソコンを開く。
画面に視線を落とす。
文字が並んでいる。
意味は追えるはずなのに、頭に入ってこない。
さっきの感覚が残っている。
優斗と話したあとの、ほんの少しの時間。
何もなかったはずなのに、何かが変わった気がする。
考えようとして、やめる。
仕事に集中しようとする。
でも、うまくいかなかった。
夕方、会社を出る。
外はもう暗くなりかけていた。
人通りは多い。
いつもと同じ帰り道のはずだった。
それなのに、少しだけ周囲が気になる。
歩きながら、何度か後ろを見る。
同じ方向に進む人がいるだけだった。
特に変わった様子はない。
それでも、感覚だけが残る。
誰かがいる。
そんな気がしていた。
駅に向かう途中、足音が少し近づいた気がした。
振り返るより先に、声がかかる。
「中村香帆さん」
知らない声だった。
反射的に立ち止まる。
ゆっくり振り返る。
男が立っていた。
年下に見える。
低くて落ち着いた声のわりに、表情は読めなかった。
なぜ、自分の名前を知っているのか。
「……誰ですか」
自然に距離を取る。
男はそれ以上近づいてこなかった。
少しだけ周囲を見てから、香帆に視線を戻す。
その視線は、一瞬だけ香帆の背後に向いた。
何かを警戒しているように見えた。
「時間がありません」
短く言った。
意味が分からない。
次の言葉を待つ。
男は一瞬だけ迷うように口を閉じて、それから言った。
「気をつけた方がいいです」
わずかに声を落とす。
「――近くにいる人です」
周囲の音が、遠くなった気がした。
「何を——」
言いかけた瞬間、男は首を振る。
「関わらないでください」
低い声だった。
そして、続ける。
「もう遅いかもしれませんが」
意味が分からない。
分からないまま、胸の奥がざわつく。
「誰のことですか」
聞き返す。
男は答えなかった。
一瞬だけ、香帆の方を強く見た。
何か言おうとして、やめたように見えた。
そのまま視線を外す。
「……今は、いい」
小さく言う。
それ以上は何も言わず、男は人の流れの中に入っていった。
すぐに姿が見えなくなる。
取り残されたように、その場に立っていた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
さっきの言葉だけが、頭の中に残る。
気をつけた方がいい。
近くにいる人。
関わるな。
もう遅いかもしれない。
誰のことかも分からない。
理由もない。
ただ、それだけだった。
しばらくして、ようやく体が動く。
歩き出す。
でも、足取りはさっきまでと違っていた。
さっきまで感じていた視線の正体が、少しだけ形を持った気がした。
怖い、というよりも、分からないという感覚の方が強い。
優斗の顔が浮かぶ。
さっきまで一緒にいた。
いつも通りだった。
何もおかしくなかった。
あの言葉と、結びつかない。
結びつける理由がない。
考えるほど、分からなくなる。
駅の改札を抜ける。
電車に乗る。
ドアのガラスに映る自分の顔を見る。
少しだけ、強張っていた。
さっきの男の言葉。
優斗の表情。
昨日の両親の声。
全部が頭の中で並ぶ。
でも、繋がらない。
繋がらないはずなのに、どこかで引っかかっている。
考えすぎだと思う。
そう思いたかった。
でも、その考えもすぐに揺れる。
電車が動き出す。
外の景色が流れていく。
視線を落とす。
スマートフォンを握る。
画面は暗いままだった。
何も分かっていなかった。
でも、体だけが知っていた。




