近すぎる
五月に入っていた。
連休が明けて、街はいつもの速さに戻っている。
電車の混み方も、会社の空気も、少しだけ乾いた感じがした。
仕事は、問題なくこなせていた。
遅れていた分も取り戻して、いつも通りに見えるところまでは戻っている。
それでも、完全に同じには戻らなかった。
一人になると、考えてしまう。
あの日のことや、両親の声や、あの男の言葉。
答えの出ないまま、頭の奥に残っていた。
それを振り払うように、香帆はスマートフォンを見た。
メッセージは短かった。
『今日、会える?』
優斗からだった。
少しだけ間を置いてから、『うん』と返す。
既読はすぐについた。
それだけで、少しだけ息が整う。
理由は分からなかった。
待ち合わせの店は、駅から少し離れた場所にあった。
人通りは多すぎず、落ち着いている。
先に着いて、席に座る。
グラスの水に手を伸ばして、少しだけ口をつけた。
そのとき、入口のドアが開く。
優斗が入ってきた。
いつもと同じだった。
目が合って、軽く手を上げる。
それだけで、空気がやわらぐ。
「待った?」
「ううん、今来たところ」
向かいに座る。
注文をして、少しだけ他愛のない話をする。
仕事のことや、連休の話。
どこにでもある会話だった。
その中で、ふと、間ができた。
意識したわけじゃないのに、会話が途切れる。
その隙間に、昨日までのことが入り込んでくる。
香帆は、グラスに触れたまま、言った。
「ねえ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
優斗が顔を上げる。
「なに?」
変わらない声だった。
「お姉ちゃんのことなんだけど」
一瞬だけ、優斗の視線が止まった。
瞬きの間くらいの。
でも、確かに止まった。
「……実は、亡くなってるんだよね」
「前に言ってたよね」
静かな返しだった。
「殺されたんだ」
優斗の手が、わずかに止まった。
グラスに触れていた指先が、そのまま動かない。
一秒にも満たない間だった。
でも、香帆は見ていた。
「……そうなんだ」
落ち着いた声だった。
「犯人、お姉ちゃんの彼氏だった人なんだよね」
言葉を選びながら続ける。
「家にもよく来ててさ。私も、何回も話したことある人だった」
そこまで言って、少しだけ息を吸う。
「……普通だったのに」
静かに言葉が落ちる。
優斗は、ゆっくりとグラスを持ち上げた。
一度、口をつける。
それから、置く。
「話してくれてよかった」
それだけだった。
驚いた様子はなかった。
自然すぎるくらいに、自然だった。
香帆は、少しだけ頷いた。
「うん」
それ以上、言葉は続かなかった。
会話はそのまま別の話に流れる。
さっきまでと同じように、何気ないやり取りが続く。
そのまま、何も考えなくなりそうだった。
気のせいだったのかもしれない。
そう思った。
店を出たあと、駅まで並んで歩く。
夜の空気は、少しだけぬるくなっていた。
人の流れに合わせて歩く。
隣に優斗がいる。
それだけで、落ち着いている自分がいる。
改札の手前で、優斗が言った。
「じゃあ、また連絡する」
「うん」
短く答える。
そのまま、優斗は改札を抜けていく。
背中が見えなくなるまで、少しだけその場に立っていた。
それから、自分も歩き出す。
ホームに向かう。
人が多い。
いつも通りの光景だった。
それなのに、どこか違って見える。
背中の奥が、またざわついた。
振り返る。
人がいるだけだった。
同じ方向に歩く人たち。
特別な誰かは見えない。
それでも、さっきまでとは違う感じが残る。
誰かに見られているような。
足を止めてみる。
人の流れが、少しだけ乱れる。
それでも、何も起きない。
また歩き出す。
同じ距離で、何かがついてくる気がした。
あの男の声が蘇る。
――近くにいる人です。
胸の奥が、わずかにざわつく。
頭を振る。
そんなはずないと思った。
優斗は、さっきまで一緒にいた。
いつも通りだった。
何もおかしくなかった。
そう思う。
思い直す。
それでいいはずだった。
電車が来る。
ドアが開く。
乗り込む。
中は混んでいた。
人の気配に紛れて、さっきの感覚は少しだけ薄れる。
吊り革に手を伸ばす。
窓に映る自分の顔を見る。
少しだけ、表情が固かった。
目を逸らす。
優斗の顔が浮かぶ。
さっきの声。
落ち着いた反応。
そして、一瞬止まった指先。
あの間。
あの視線。
全部が、ゆっくりと並び始める。
でも、まだ繋がらない。
繋げてはいけない気がした。
そう思った瞬間、
逆に、それが繋がりかけている証拠のように思えた。
電車が動き出す。
景色が流れていく。
視線を落とす。
スマートフォンを握る。
画面は暗いままだった。
近すぎる。
そう思った瞬間、もう離れられない気がした。




