景色
香帆はまだ、仕事を休んでいた。
親友を失った現実を、どうしても受け入れられなかった。
優斗にも、しばらくは会えないと伝えていた。
その間、外に出たのは熊野と会ったときくらいだった。
まだ立ち直れてはいない。
それでも、いつまでも止まっているわけにはいかなかった。
香帆は仕事に戻った。
いつもと同じ時間に家を出て、同じ電車に乗る。
車内の空気も、窓の外の景色も、何も変わっていない。
それなのに。
どこか、全部が遠く見えた。
会社に着いて席に座る。
パソコンを立ち上げる。
メールを開く。
一度読んだはずの文章を、もう一度読み返していた。
視線だけが、文字を追っている。
「香帆、大丈夫?」
横から声をかけられ、顔を上げる。
原川だった。
「あ……うん」
反射的に頷く。
「顔色、ちょっと悪いよ。無理してない?」
いつもの軽い調子。
でも、目だけはちゃんと見ていた。
「大丈夫。ちょっと寝不足で」
「そっか」
それ以上は踏み込んでこなかった。
少し間を置いてから、原川が言う。
「そういえばさ、桐島さんのこと聞いた?」
その名前に、指が止まった。
「……何かあったの?」
「交通事故」
あっさりした言い方だった。
「夜、帰る途中だったらしくてさ。結構ひどかったみたい」
帰る途中。
その言葉だけが、妙に残った。
「今、入院してるって。しばらく戻れないって話」
原川は肩をすくめる。
「ついてないよね」
軽く言っただけだった。
それ以上の意味はないはずだった。
香帆は頷く。
「……そうなんだ」
それだけしか言えなかった。
会話はそこで終わった。
原川は「無理しないでよ」とだけ言って、自分の席に戻る。
画面に視線を戻す。
メールの文字が、さっきよりも遠く感じた。
美咲のことが浮かぶ。
熊野の言葉。
水島は、もう外にいる。
そして――桐島の事故。
ただの偶然だと思えば、それで終わる話だった。
そう思おうとした。
でも。
偶然にしては、重なりすぎている。
そう思った瞬間、
胸の奥がはっきりと冷えた。
考えるのをやめようとしても、止まらなかった。
仕事が終わる頃には、ほとんど何も進んでいなかった。
帰り道、スマートフォンが震えた。
優斗からだった。
『今、帰り?』
短いメッセージ。
少し迷ってから、返信する。
『うん』
すぐに既読がついた。
『無理してない?』
その一言に、指が止まる。
何をどこまで話すべきか、分からない。
画面を見つめたまま、少し考える。
『大丈夫』
それだけ送った。
数秒後、返信が来る。
『ならよかった』
それだけだった。
それ以上、何も続かなかった。
何も聞いてこない。
何も確かめない。
それが、一番おかしかった。
スマートフォンをポケットにしまう。
それで終わりのはずだった。
それでいいはずだった。
なのに、どこか物足りなさが残る。
夜、部屋に戻る。
電気をつけると、静けさが広がった。
一人になると、また考えてしまう。
両親のことが浮かぶ。
もし、本当に知っていたとしたら。
どうして、何も言わなかったのか。
その先を考えるのが、怖かった。
今は、まだ分からない。
分からないことばかりだった。
でも。
一つだけ、はっきりしている。
何かがおかしい。
その違和感だけが、静かに残っていた。




