交わる
熊野から返信が来たのは、一週間後だった。
『連絡をいただき、驚きました。真紀さんのことは、今も忘れていません。私は今、都内にいます。もしよければ、一度お会いできませんか』
――
都内の喫茶店は、昼過ぎの静けさに包まれていた。
窓際の席に座り、香帆は時間を確認する。
まだ少し早い。
手のひらが冷えているのを、自分でもはっきりと感じていた。
ドアのベルが鳴る。
顔を上げると、一人の男性が店内を見回していた。
三十代前半くらい。
派手さはないが、整った印象だった。
視線を逸らさない人だった。
香帆と目が合う。
男はそのまま歩いてきた。
「中村さん……香帆さん、ですか」
「はい。熊野さん、ですよね」
軽く頷いて、向かいに座る。
椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。
熊野が、ゆっくり口を開いた。
「真紀さんに、似てますね」
その一言で、胸の奥が揺れる。
「よく言われます」
それ以上は言えなかった。
熊野は小さく息を吐き、ゆっくりと話し始めた。
「最初は、普通のバイト仲間でした」
視線を落としたまま続ける。
「夕方の忙しくなる前に、補充とかテーブルの準備を一緒にやることが多くて。閉店前まで残る日もあって、そのときに少しずつ話すようになりました」
言葉は多くないが、丁寧だった。
「真紀さん、誰と話しててもちゃんとその人の話を聞く人でしたけど……」
熊野は視線を落とした。
「俺といるときは、少しだけ違った気がして」
それ以上は言わなかった。
香帆は黙って聞いていた。
「彼氏がいたので、何も言えなかったんです」
静かな声だった。
「でも……」
言いかけて、やめる。
カップに触れていた指が、わずかに動いた。
「別れるって聞いたとき、正直、ほっとしました」
苦笑する。
「最低ですよね」
「そんなことないです」
香帆はすぐに言った。
熊野は一瞬だけ顔を上げる。
「……そうですか」
視線を外し、窓の外を見る。
「……真紀さんに、気持ちを伝えてしまって」
「それが、別れ話の……」
言葉が、そこで止まった。
香帆は何も言えなかった。
「……事件のあと、ご両親に一度だけ伺ったことがあります」
熊野が静かに言った。
「謝りたくて。直接の原因ではないと分かっていても……そうせずにはいられなかった」
香帆は、少しだけ息が止まった。
玄関に来た人がいた。
母が長い時間、外で話していた。
名前も理由も、何も知らなかった。
あのとき来たのが、この人だったのかもしれない。
お姉ちゃんも、この人のことを考えていたのかもしれない。
そこから先は、考えないようにした。
その後も、会話は続いた。
バイトのこと、他愛のない出来事。
コーヒーの湯気だけが、静かに揺れていた。
けれど、真紀が亡くなった夜のことには、一度も触れなかった。
触れないまま、時間だけが過ぎていく。
帰り際、熊野が言った。
「……また、話してもいいですか」
少し間のある言い方だった。
香帆は頷いた。
店を出ると、外の空気が思ったより冷たかった。
誠実な人だと思った。
それでも、何かが残っている。
触れられなかった部分が、そのままそこにあるような感覚だった。
――
一週間後、熊野から連絡が来た。
『もう一度だけ、お話しできますか。真紀さんのことで、伝えておきたいことがあります』
前よりも短く、少し硬い文章だった。
香帆はすぐに返信できなかった。
あのとき、熊野は何かを言いかけてやめていた。
それが、この続きなのかもしれない。
『大丈夫です』
短く返した。
――
同じ喫茶店だった。
熊野はすでに席に着いていた。
前回と同じ場所なのに、空気が違う。
向かいに座っても、すぐには言葉が出てこなかった。
熊野がカップに手を添えたまま、視線を落とす。
熊野は、カップに触れたまま動かなかった。
「……前回、言おうか迷っていたことがあります」
ゆっくりと口を開く。
「ご両親から聞いているかもしれないと思って、この前は言えなかったんです」
一度、言葉が止まる。
「でも、香帆さんの様子を見て……知らないんじゃないかと」
「……それで、言おうと思って」
声のトーンが、わずかに変わる。
「水島涼介のことです」
胸の奥が、強く締め付けられる。
「水島涼介は、七年で出所しています」
声が、遠くなった。
熊野の口が動いているのは分かった。
でも、言葉が入ってこなかった。
「……もう、二年くらい前の話です」
同じ時間の中で、生きている。
その事実が、遅れて重くのしかかる。
香帆はテーブルの上で手を組んだ。
指先がわずかに震えている。
「……地元では、噂になっていたので」
熊野が静かに続ける。
「だから、ご両親も知っている可能性が高いと思っていました」
はっきりとは言わない。
でも、それで十分だった。
香帆は黙った。
両親の顔が浮かぶ。
最近の電話の声。
どこか踏み込まない言い方。
聞こうとして、やめたような空気。
あのとき感じた違和感が、ゆっくりと形を持つ。
知っていたのかもしれない。
ずっと。
もし、本当に知っていたとしたら。
なぜ、何も言わなかったのか。
問いかけが浮かぶ。
でも、それをここで口にすることはできなかった。
「なぜ、それを私に」
ようやく、それだけを言葉にする。
「知っておいた方がいいと思って」
熊野は静かに答えた。
「俺も、あとから知りました。地元の知人から、噂で」
距離のある話し方だった。
でも、それが現実だった。
しばらく、言葉は続かなかった。
コーヒーの湯気だけが、ゆっくりと上がっている。
店を出ると、夕方の空気が肌に触れた。
水島涼介は、今もどこかにいる。
その事実だけが、はっきりと残る。
長い時間が過ぎても、終わっていないものがあった。




