表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/40

波紋


 帰ってからも、何度もその名前を思い出した。


 熊野。


 その名前だけが、頭から離れなかった。


 チケットの裏に書かれていた言葉。


 『熊野さんと』


 偶然だと思おうとした。


 でも、うまくいかなかった。


――


 昼前、香帆は駅前に立っていた。


 目の前にある店を見上げる。


 『サンロード』


 昨日、母に真紀のバイト先の名前を聞いた。


 ここで、真紀は働いていた。


 ここで、熊野と出会った。


 そう思うだけで、足が止まる。


 入る理由なんて、本当はなかった。


 ただ、気になっただけだ。


 それだけのはずなのに、胸の奥がざわつく。


 帰ろうと思えば、帰れた。


 でも、動かなかった。


 息を整えてから、ドアを押した。


 店内は明るかった。


 昼の時間を外しているせいか、客はまばらだった。


 案内された席に座る。


 水が置かれる。


「ご注文お決まりでしたら――」


「すみません」


 言葉を遮るようにして、声を出した。


 自分でも少し驚く。


「ちょっと、聞きたいことがあって」


 店員が一瞬だけ表情を止める。


 すぐに笑顔に戻る。


「どういったご用件でしょうか」


 言い方が、少しだけ固かった。


「十年くらい前に、ここで働いていた人のことなんですけど」


 そこまで言ったときだった。


 店員の笑顔が、一瞬だけ止まった。


「少々お待ちください」


 店員は奥へ引っ込んだ。


 その背中を見送りながら、香帆は息を吐く。


 来なければよかった、と一瞬思った。


 それでも、席を立てなかった。


 出てきたのは、店長らしき男性だった。


 落ち着いた雰囲気だったが、少し困ったように眉を寄せている。


「十年前のバイトの方、ですか」


「はい」


「正直に言うと、記録はもう残っていなくて……」


 予想していた答えだった。


 それでも、胸の奥が少しだけ沈む。


「熊野という名前の方なんですが」


 その名前を出した瞬間だった。


 店長の表情が、わずかに変わった。


 一瞬だけ。


 何かを思い出したような、それでいて思い出したくないような顔だった。


「……熊野、ですか」


「はい」


「少し、待っていただけますか」


 店長はそう言って、奥へ戻っていった。


 香帆は、テーブルの上の水に手を伸ばす。


 手が、少しだけ震えていた。


 しばらくして、別の女性が出てきた。


 四十代くらいだろうか。


 落ち着いた雰囲気だった。


 こちらを見る目が、少しだけ細くなる。


「熊野くんのこと?」


 確認するような言い方だった。


 名前を知っている人間にだけ向ける、距離の詰め方だった。


 香帆は一瞬、言葉を失う。


「……はい」


 女性は、少しだけ息をついた。


「懐かしい名前ね」


 少し間を置いて、続ける。


「当時、大学生だった子よ。三年生くらいだったかしら」


 ぼんやりしていた“熊野”が、急に現実味を帯びる。


 十年前。


 大学生。


 真紀と同じ場所にいた人。


 女性が、香帆の顔をじっと見た。


「……あなた、もしかして」


 言葉が途中で止まる。


 確かめるような視線だった。


「真紀ちゃんの、知り合い?」


 一瞬、迷う。


 でも、隠す理由はなかった。


「……妹です」


 女性は、言葉を選ぶように視線を落とした。


「……そう」


 短く頷く。


 さっきまでとは、少し違う空気だった。


 距離が、変わる。


「当時、何度か一緒にご飯に行ったことがあったわ」


 思っていたよりも距離が近い。


 胸の奥がざわつく。


「仲、良かったんですか」


 聞いたあとで、少しだけ後悔する。


 踏み込みすぎたかもしれない。


 女性は少し考えるように視線を落とした。


「どうかしらね」


 少し考えてからの答えだった。


 すぐに出るはずの記憶を、一度、選び直したみたいに。


「同じシフトの日は多かったけど……ずっと一緒にいる感じでもなかったし」


 言葉が揺れる。


「でも、よく話してたような気もするし……」


 はっきりしない。


 それが、逆に引っかかった。


「熊野さん、今どこにいるか分かりますか」


 香帆は続けた。


 女性はすぐには答えなかった。


「直接は知らないわ」


 やがて、そう言った。


「卒業して、東京に行ったって聞いたくらい」


 それ以上は出てこない。


「連絡先とかは……」


「さすがにそこまでは」


 きっぱりだった。


 席を立ちかけたとき、女性が小さく言った。


「……熊野鉄也くん、っていう名前だったわ」


 その言葉が、空気に溶けていった。


 香帆は小さく頷いた。


 それ以上聞く空気ではなかった。


 店を出たとき、空気が少し冷たく感じた。


 何かを掴めた気がした。


 でも、何も分かっていない気もした。


 仲が良かったのか、そうでもなかったのか。


 近かったのか、遠かったのか。


 どれも曖昧だった。


 無関係のはずなのに、そう思えなかった。


 熊野鉄也。


 その名前だけが、離れなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
誰かが裏で操っているのかな、
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ