触れた過去
翌朝になっても、その名前は消えなかった。
熊野。
その名前だけが、頭から離れなかった。
チケットの裏に書かれていた言葉。
『熊野さんと』
偶然だと思おうとした。
でも、うまくいかなかった。
――
昼前、香帆は駅前に立っていた。
目の前にある店を見上げる。
『サンロード』
昨日、母に真紀のバイト先の名前を聞いた。
ここで、真紀は働いていた。
ここで、熊野と出会った。
そう思うだけで、足が止まる。
入る理由なんて、本当はなかった。
ただ、気になっただけだ。
それだけのはずなのに、胸の奥がざわつく。
帰ろうと思えば、帰れた。
でも、動かなかった。
息を整えてから、ドアを押した。
店内は明るかった。
昼の時間を外しているせいか、客はまばらだった。
案内された席に座る。
水が置かれる。
「ご注文お決まりでしたら――」
「すみません」
言葉を遮るようにして、声を出した。
自分でも少し驚く。
「ちょっと、聞きたいことがあって」
店員が一瞬だけ表情を止める。
すぐに笑顔に戻る。
「どういったご用件でしょうか」
言い方が、少しだけ固かった。
「十年くらい前に、ここで働いていた人のことなんですけど」
そこまで言ったときだった。
店員の笑顔が、一瞬だけ止まった。
「少々お待ちください」
店員は奥へ引っ込んだ。
その背中を見送りながら、香帆は息を吐く。
来なければよかった、と一瞬思った。
それでも、席を立てなかった。
出てきたのは、店長らしき男性だった。
落ち着いた雰囲気だったが、少し困ったように眉を寄せている。
「十年前のバイトの方、ですか」
「はい」
「正直に言うと、記録はもう残っていなくて……」
予想していた答えだった。
それでも、胸の奥が少しだけ沈む。
「熊野という名前の方なんですが」
その名前を出した瞬間だった。
店長の表情が、わずかに変わった。
一瞬だけ。
何かを思い出したような、それでいて思い出したくないような顔だった。
「……熊野、ですか」
「はい」
「少し、待っていただけますか」
店長はそう言って、奥へ戻っていった。
香帆は、テーブルの上の水に手を伸ばす。
手が、少しだけ震えていた。
しばらくして、別の女性が出てきた。
四十代くらいだろうか。
落ち着いた雰囲気だった。
こちらを見る目が、少しだけ細くなる。
「熊野くんのこと?」
確認するような言い方だった。
名前を知っている人間にだけ向ける、距離の詰め方だった。
香帆は一瞬、言葉を失う。
「……はい」
女性は、少しだけ息をついた。
「懐かしい名前ね」
少し間を置いて、続ける。
「当時、大学生だった子よ。三年生くらいだったかしら」
ぼんやりしていた“熊野”が、急に現実味を帯びる。
十年前。
大学生。
真紀と同じ場所にいた人。
女性が、香帆の顔をじっと見た。
「……あなた、もしかして」
言葉が途中で止まる。
確かめるような視線だった。
「真紀ちゃんの、知り合い?」
一瞬、迷う。
でも、隠す理由はなかった。
「……妹です」
女性は、言葉を選ぶように視線を落とした。
「……そう」
短く頷く。
さっきまでとは、少し違う空気だった。
距離が、変わる。
「当時、何度か一緒にご飯に行ったことがあったわ」
思っていたよりも距離が近い。
胸の奥がざわつく。
「仲、良かったんですか」
聞いたあとで、少しだけ後悔する。
踏み込みすぎたかもしれない。
女性は少し考えるように視線を落とした。
「どうかしらね」
少し考えてからの答えだった。
すぐに出るはずの記憶を、一度、選び直したみたいに。
「同じシフトの日は多かったけど……ずっと一緒にいる感じでもなかったし」
言葉が揺れる。
「でも、よく話してたような気もするし……」
はっきりしない。
それが、逆に引っかかった。
「熊野さん、今どこにいるか分かりますか」
香帆は続けた。
女性はすぐには答えなかった。
「直接は知らないわ」
やがて、そう言った。
「卒業して、東京に行ったって聞いたくらい」
それ以上は出てこない。
「連絡先とかは……」
「さすがにそこまでは」
きっぱりだった。
席を立ちかけたとき、女性が小さく言った。
「……熊野鉄也くん、っていう名前だったわ」
その言葉が、空気に溶けていった。
香帆は小さく頷いた。
それ以上聞く空気ではなかった。
店を出たとき、空気が少し冷たく感じた。
何かを掴めた気がした。
でも、何も分かっていない気もした。
仲が良かったのか、そうでもなかったのか。
近かったのか、遠かったのか。
どれも曖昧だった。
無関係のはずなのに、そう思えなかった。
熊野鉄也。
その名前だけが、離れなかった。




