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最後の別れ


 葬儀は、すぐには行われなかった。


 警察での検視や解剖があり、手続きに時間がかかったと聞いた。


 遺体が山梨に戻ってきたのは、事件から数日後のことだった。


 式場に着いたとき、すでに田中は来ていた。


 入口の脇に立っていた。


 同じ場所を何度も見ている。


 落ち着かない様子だった。


「田中さん……」


 声をかけると、少し遅れてこちらを見た。


「ああ……」


 何か言おうとして、やめる。


 そのまま視線を落とした。


 香帆も、それ以上何も言えなかった。


 優斗には声をかけていた。


 一緒に来るかと聞いた。


 返事は短かった。


 仕事があるから、今回は行けないと。


 無理するな、とも言われた。


 香帆は、小さく息を吐いた。


 でも、引っかかった。


 何が、とは言えなかった。


 式場の中は、静かだった。


 人は多いのに、声はほとんど聞こえない。


 焼香の列に並びながら、足元ばかり見ていた。


 顔を上げたら、崩れてしまいそうだった。


 順番が来る。


 前に出る。


 白い花。


 写真の中の美咲が、笑っていた。


 その顔を見た瞬間、嗚咽がこみ上げた。


 涙が止まらなかった。


 肩が震えた。


 隣で、絵里も声を殺して泣いていた。


 香を落とした。


 頭を下げた。


 それだけで精一杯だった。


 列の端で、田中が顔を覆っていた。


 式が終わったあとだった。


 人の流れの中で、足が止まる。


「香帆ちゃん……」


 呼ばれて、振り返る。


 美咲の母だった。


 やつれていた。


 それでも、無理に笑おうとしているのが分かった。


「来てくれて、ありがとうね」


 その一言だった。


 香帆は、何も言えなかった。


 言葉を探しても、出てこない。


 ただ、頭を下げることしかできなかった。


「……あの子、二人のこと、大好きだったから」


 小さな声だった。


 また、涙が出た。


 絵里も、俯いたまま泣いていた。


 何も言えなかった。


 ただ、頭を下げた。


 それしか、できなかった。


 帰り道、香帆の母が隣を歩いていた。


「無理しなくていいからね」


 静かな声だった。


 肩に、そっと手が触れる。


 その温度に、少しだけ息ができる。


 父は少し前を歩いている。


 何も言わない。


 でも、時々振り返る。


 それだけで、十分だった。


――


 夜だった。


 実家の中は、静かだった。


 人はいるはずなのに、誰の気配も感じなかった。


 自分の部屋にいても、落ち着かない。


 リビングにいても、同じだった。


 考えたくないことばかりが浮かんでくる。


 拓海のこと。


 美咲のこと。


 どちらも、もういない。


 分かっているはずなのに、頭が追いつかない。


 気づくと、廊下に出ていた。


 足が止まる。


 その先にあるドアを見ていた。


 姉の部屋。


 事件以来、一度も入っていない場所。


 開ければ、全部が戻ってくる気がした。


 それでも――


 会いたい、と思った。


 理由なんてなかった。


 ゆっくりと、ドアノブに手をかける。


 冷たかった。


 息を吸う。


 そして、回した。


 ドアが開く。


 閉じ込められていた時間が、一気に戻ってきた。


 カーテンの位置も、机の上の小物も、何も変わっていない。


 時間だけが止まっているみたいだった。


 足を踏み入れる。


 床の感触が、やけに鮮明だった。


 机の上に、封筒があった。


 何気なく手に取る。


 中から、紙が滑り落ちる。


 映画のチケットだった。


 裏返す。


 ペンで、小さく文字が書かれている。


『熊野さんと』


 思わず、声が漏れた。


 知らない名前だった。


 なのに、胸の奥がざわつく。


 机の引き出しを、もう一度開ける。


 中に、折りたたまれた紙があった。


 シフト表だった。


 広げる。


 日付の横に、小さく印がついている日がある。


 いくつか、同じ印。


 その並びの中に、目が止まる。


 熊野。


 その名前の横にある日付と、

 印のついた日が、いくつも重なっていた。


 一つじゃない。


 何度も。


 偶然だと、思えなかった。


 知らない名前だった。


 なのに、その名前だけが、胸の奥に引っかかっていた。


 最初から、そこにあったみたいに。

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― 新着の感想 ―
涙の章です。悲しい。。。
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