そこにあるもの
朝の空気は、冷たかった。
駅からの道を、田中はほとんど覚えていなかった。
ただ、急がなければと思っていた。
それだけだった。
マンションに入り、エレベーターのボタンを押す。
なかなか来ない。
表示される数字を、ただ見ていた。
扉が開く。
乗り込む。
三階。
ボタンを押す指が、わずかに震えていた。
箱の中は静かで、自分の呼吸音だけがやけに大きい。
扉が開く。
廊下に出る。
足音が響く。
美咲の部屋の前で止まる。
インターホンを押す。
反応はない。
もう一度押す。
何も変わらない。
「……美咲」
声をかける。
返事はない。
一瞬、迷う。
ポケットから鍵を取り出す。
美咲から預かっていた合鍵だった。
差し込む。
回す。
小さな音がして、鍵が外れる。
ゆっくりと、ドアを開ける。
空気が違った。
人がいた後の空気じゃない。
まだ、そこにいるような空気だった。
冷たい。
生活の気配が、薄い。
「美咲!」
一歩、踏み入れる。
返事はない。
「美咲……!」
もう一度呼ぶ。
静けさだけが、返ってくる。
靴のことを考えなかった。
部屋の中は、静かだった。
静かすぎた。
何も音がしない。
視線が、奥へ向かう。
リビング。
その先。
――そこで、止まった。
まず目に入ったのは、動かない足だった。
足が止まる。
息が詰まる。
「……は?」
声が出た。
自分の声じゃないみたいだった。
目が離せない。
頭の中が、真っ白になる。
「……なんで……」
言葉にならない。
時間の感覚が消える。
やっと、ポケットに手を入れる。
スマートフォン。
指が震える。
うまく押せない。
110。
発信。
「……はい、110番です」
声が聞こえる。
「……あの……」
言葉が出てこない。
喉が詰まる。
「人が……」
違う。
違う。
「……倒れてて……」
呼吸が乱れる。
「動かなくて……」
何を言っているのか、自分でも分からない。
「場所を教えてください」
言われる。
同じことを何度も聞かれる。
うまく答えられているのか分からない。
それでも、通話は続いていた。
気づいたとき、田中は部屋の外にいた。
廊下に立っている。
ドアは開いたまま。
中を見てはいけないと思った。
でも、視線は離れない。
足音が近づく。
人の気配。
声。
警察だった。
――
タクシーを降りた瞬間、香帆は足を止めた。
見たことのない光景だった。
人が集まっている。
見慣れない車。
制服の警察官。
その場の空気だけが、どこか現実から切り離されている。
優斗が、隣に立つ。
「……大丈夫?」
低く、抑えた声だった。
香帆は、すぐに答えられなかった。
ただ、小さく頷く。
一歩、前に出る。
そのとき、視界に入る。
黄色いテープ。
マンションの入口付近に張られている。
警察官が立ち、通せんぼするように腕を伸ばしている。
中には、入れない。
部屋のある場所へは、もう行けないのだと分かった。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
足が重い。
それでも、止まれなかった。
「……香帆ちゃん」
呼ばれた。
振り返る。
田中がいた。
少し離れた場所に立っている。
顔色が、異常だった。
「田中さん……」
近づく。
その途中で、足が止まる。
目が合わない。
焦点が、どこにも合っていない。
「……ごめん」
かすれた声だった。
意味が分からない。
「俺……」
言葉が続かない。
呼吸が荒い。
「……守れなかった」
その言葉で、胸の奥が強く引き寄せられる。
理解はしていない。
でも、何かが終わったことだけは分かる。
「この前、部屋に入られてるんです!」
突然、田中が声を上げた。
警察官に向かって。
「知らないやつがいたって、美咲が言ってたんだ!」
息が荒い。
声が震える。
「だから……そいつなんです……!」
拳を握りしめる。
「そいつがやったんだ……!」
言葉が崩れる。
そのとき、田中の視線が止まった。
優斗を見ていた。
空気が変わる。
「……美咲、最近ずっとお前のこと気にしてたんだよ」
低い声だった。
「何か調べてて……」
呼吸が乱れる。
「だから……」
優斗の表情が、初めて強張った。
「まさか……お前がやったのか」
「ふざけないでください」
低い声だった。
「俺が美咲さんを殺した?」
一歩、前に出る。
「根拠もないのにそんなことを言わないでください」
声が、震えていた。
「……田中さんも、つらいのはわかります」
呼吸を整えるように、優斗は息を吐く。
「俺だって、ショックです。美咲さんとは何度も会ってる」
「こんなことになるなんて、信じられない」
田中は押し黙った。
根拠がない。
それ以上、言えなかった。
絵里が、香帆の隣にいた。
いつの間にか来ていた。
「香帆……」
声が震えている。
肩を強く掴まれる。
その力だけが現実だった。
警察の声がする。
何か言っている。
でも、意味が入ってこない。
規制線の向こうに、部屋がある。
あの中に――
考えようとした瞬間、思考が止まる。
優斗が、すぐ後ろにいる。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
最初から、全部知っていたみたいに。
理解できていないはずなのに、体のどこかが知っていた。
もう、戻らない。
何かがいる。
その感覚だけが、消えなかった。




