電話の向こう
深夜だった。
スマートフォンの着信で目が覚めた。
画面を見ると、田中の名前が表示されている。
こんな時間に、と思いながら通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「香帆ちゃん」
少し掠れた声だった。
「美咲と、連絡つく?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……え?」
「さっきから何度もかけてるんだけど、繋がらなくて」
短く息を吸う音がした。
「香帆ちゃんの方に、何か連絡きてない?」
「……いえ、来ていません」
体の奥が、じわっと冷える。
スマートフォンを持ち直す。
「少し待ってください。私からもかけてみます」
「……ああ」
一度、通話を切る。
美咲の名前を開く。
発信。
呼び出し音は鳴らなかった。
代わりに、機械的な音声が流れる。
電源が入っていないか、電波の届かない場所にいる。
もう一度かける。
同じだった。
そのまま、田中にかけ直す。
「……どうだった?」
「繋がりませんでした。電源が入っていないみたいです」
電話の向こうで、田中が息を吐いた。
「普段、こんなことないよな」
「はい……」
喉が乾く。
理由は分からない。
でも、胸の奥に残る違和感が消えない。
「ごめん。俺……仕事どころじゃなくて」
声が掠れる。
「朝イチで戻る」
短く言い切った。
「一回、部屋見に行く」
「……分かりました」
それしか言えなかった。
通話が切れる。
画面が暗くなる。
そのまま、しばらく動けなかった。
もう一度、美咲に電話をかける。
同じ音声が流れる。
繰り返しても、変わらない。
部屋の静けさが、やけに重く感じた。
時計の音だけが、妙に大きい。
どうすればいいのか、分からない。
考えようとしても、思考がまとまらなかった。
絵里の名前を開く。
少しだけ迷ってから、発信する。
「……もしもし?」
眠気の残る声だった。
「絵里……」
自分の声が、思ったより弱い。
「美咲と、連絡がつかなくて」
電話の向こうが静かになる。
「……いつから?」
「さっき、田中さんから電話があって……それで」
言葉がうまく続かない。
「そっちも出ない?」
「出ない」
絵里が小さく息を吐く。
「……大丈夫だといいけど」
声は落ち着いていた。
「私も起きてるから。何かあったら、すぐ連絡して」
その言葉に、張っていたものが少し緩む。
「……うん」
それ以上、言葉は出なかった。
通話を切る。
何も変わらない。
何も分からない。
ただ、不安だけが残る。
優斗の名前が目に入る。
一瞬だけ迷う。
それでも、指は動いた。
呼び出し音のあと、すぐに繋がる。
「もしもし」
いつもと同じ声だった。
「どうした?」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが少し緩む。
――安心してしまった。
「美咲と、連絡がつかなくて……」
自分でも、うまく説明できていないのが分かる。
「田中さんから電話があって、それで……」
優斗の声が少し低くなる。
「心配だよな」
「……うん」
「でも、大丈夫だと思う」
やわらかい声だった。
でも、その一言が、妙に長く耳に残った。
「何かあったら、絶対誰かに連絡してるはずだし」
香帆は小さく頷く。
「……うん」
「今どこ?」
「家にいる」
「そっか。今から行く」
間を置かずに言われた。
断る理由は、思い浮かばなかった。
「……うん」
通話が切れる。
インターホンが鳴ったのは、思っていたよりも早かった。
どこにいたのだろう、と思う。
近くにいたのかもしれない。
そう思おうとした。
ドアを開ける。
優斗が立っていた。
「大丈夫?」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが少しほどけた。
中に入ると、優斗は何も言わずに隣に座る。
「朝まで一緒にいる」
それだけだった。
肩に手が触れる。
温かい。
一人じゃない、と思えた。
「今から行っても、管理会社も開いてないだろ」
優斗が静かに言った。
「田中さんも、朝戻るって言ってたんだよな」
「……うん」
「だったら、今は待つしかない」
反論できなかった。
たぶん、その通りだった。
でも――
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に残っていた不安だけが、少し濃くなった。
結局、その夜は何も分からなかった。
何度か美咲に連絡した。
同じ音声が流れるだけだった。
時間だけが、静かに過ぎていく。
眠れないまま、朝を迎えた。
朝、スマートフォンの通知で目が覚めた。
田中からだった。
『始発に乗った。また連絡する。』
それだけの短いメッセージだった。
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
まだ、何も終わっていない気がした。
何かが、静かに動き始めていた。




