重なる影
田中の部屋に来て、三日が経っていた。
その日から、田中は出張だった。
「やっぱり、行かない方が——」
「行って」
被せるように、美咲は言った。
「仕事でしょ。私のことはいいから」
少しの沈黙のあと、田中は「……わかった」とだけ言った。
「一度、自分の部屋に戻るね」
田中には言えなかった。
これ以上、巻き込みたくなかった。
ドアが閉まる音がして、部屋は静かになった。
いつまでも、あそこにいるわけにもいかなかった。
――
夜の街は、どこか現実感が薄かった。
人はいるのに、気配だけが遠い。
駅へ向かう途中、何度か振り返った。
誰かに見られている気がしたからだ。
けれど、そこには誰もいない。
いない。
何度確認しても、いない。
――考えすぎだ。
電車に乗ると、少しだけ息が楽になった。
車内は明るく、人がいて、どこにも隠れる場所がない。
窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑った。
怖がりすぎだ、と思った。
スマートフォンを開く。
何度も見返した画面が、まだ残っていた。
指が止まる。
でも、すぐに閉じた。
今夜はもう考えるのをやめようと思った。
ゆっくりと、肩の力が抜けていく。
――
自分のマンションに着いたとき、やっと戻ってきた、という実感があった。
見慣れた建物。
いつも通りの入口。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
鏡に映る自分の後ろを、一度だけ確認する。
何もない。
当たり前だ。
部屋の前に立つと、迷わず鍵を差し込んだ。
暗い部屋に電気をつける。
ソファもテーブルも、何一つ変わっていない。
バッグを置いて、大きく息を吐いた。
冷蔵庫から水を取り出して飲む。
冷たさが、喉を通る。
静かだった。
本当に、何も起きていないみたいに。
――大丈夫だった。
そう思った瞬間、体から力が抜けた。
着替えようと、寝室に向かう。
スマートフォンを置こうとして、ふと画面を開いた。
さっき閉じたはずの感覚が、また戻ってくる。
「この人……」
言葉が、途中で途切れた。
静かだった。
何も起きない。
振り返るべきか、一瞬迷う。
――気のせいだ。
そう思って、画面を閉じた。
クローゼットの前で立ち止まり、手を伸ばす。
そのときだった。
背後に、気配がした。
今までのものとは違う。
はっきりと、そこに“いる”気配だった。
振り返る。
何もいない。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
苦笑して、もう一度クローゼットに手を伸ばす。
次の瞬間、背後から腕が回った。
首が締まる。
空気が入らない。
声を出そうとしても、喉が閉じたまま動かない。
腕を掴む。
外れない。
力が強い。
どうにもならない。
視界が揺れる。
横目で、顔を見ようとする。
見えた。
一度だけ、確かに目が合った。
見えた。
それだけだった。
意識が遠のく。
音が消える。
床が近づく。
最後に見えたのは、天井だった。
その奥に、誰かの影が重なっていた。




