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不協和音


 三月に入った頃だった。


 最初は、疲れているだけだと思った。


 美咲は玄関の前で、ほんの少し立ち止まる。


 鍵は閉まっている。


 いつも通り。


 ドアノブを回す。


 開く。


 その瞬間、わずかに違う空気が流れた。


 誰かがいた後みたいな。


 そんな感覚が、かすかに残っている。


 美咲は靴を脱ぎながら、部屋の中を見た。


 何もない。


 荒らされてもいない。


 でも。


 テーブルの上のリモコンが、少しだけずれている。


 こんな置き方、していただろうか。


 昨日の自分を思い出そうとする。


 思い出せない。


 カーテン。


 閉めた位置と、少し違う。


 棚の上の小物。


 向きが、ほんの少し変わっている気がする。


 全部、確信はない。


 でも。


 全部、触られている気がした。


 美咲はその場で立ち尽くした。


 胸の奥がざわつく。


 スマートフォンを取り出す。


 迷いなく、田中の名前を押した。


「どうした?」


 すぐに出た。


 いつも通りの声。


 それだけで、少しだけ安心する。


「ねえ、今日うち来た?」


「行ってないけど」


 即答だった。


 間がない。


 その速さが、逆に怖かった。


「合鍵、持ってるの俺だけだよな」


 田中の声が、少し低くなる。


「……うん」


 喉が乾く。


「俺、今日行ってない」


 短い沈黙。


 空気が変わる。


「……じゃあ、それ誰だよ」


 美咲は何も言えなかった。


「鍵は?」


「閉まってた」


「今どこ?」


「部屋」


「出ろ」


 強い声だった。


「今すぐ外出て、待ってろ。俺、行く」


「でも」


「いいから」


 美咲は反論できなかった。


「わかった」


 通話を切る。


 そのまま靴を履き直す。


 振り返らないようにして、玄関を出た。


 ドアを閉める。


 鍵をかける。


 それでも安心できなかった。


 廊下に立つ。


 誰もいない。


 静かだった。


 その静けさが、逆に怖い。


 しばらくして、田中が駆けつけた。


「大丈夫か」


 息が少し上がっている。


 その顔を見て、ようやく現実に戻る。


「うん……たぶん」


「中、見る」


 短く言って、鍵を開ける。


 美咲は一歩後ろに下がった。


 田中が先に入る。


 キッチン。


 リビング。


 奥の部屋。


 順番に確認していく。


 数分後、田中が戻ってくる。


「誰もいない」


 当たり前の言葉。


 でも、それで終わらなかった。


「でも、触られてるな」


 美咲の心臓が跳ねる。


「やっぱり……?」


「位置、微妙に変わってる」


 田中がテーブルを指さす。


「これ、昨日こうだった?」


「……違う気がする」


「だよな」


 田中は周囲を見渡した。


 顔つきが変わっている。


 さっきまでの軽さはない。


「鍵、壊されてないし……」


 低く呟く。


「中から開けたか、合鍵か」


 その言葉が、重く落ちた。


「でも、合鍵は俺だけだし」


 自分で言って、自分で止まる。


 答えがない。


 それが一番怖かった。


「今日、ここで何してた?」


「仕事……普通に帰ってきて」


「誰かに見られてたとか」


「わからない」


 美咲は首を振った。


 考えたくなかった。


 田中は一度息を吐く。


「今日はここいない方がいいな」


「え?」


「俺んとこ来い」


 迷いがなかった。


 美咲は少しだけ考えて、頷いた。


 一人でいるのは、無理だった。


 その夜、美咲は香帆に連絡した。


 状況を説明する。


 全部。


 田中が来たことも。


 部屋の違和感も。


 合鍵の話も。


 香帆は、ほとんど何も言わなかった。


 ただ、静かに聞いていた。


 その沈黙が、逆に怖かった。


「……気をつけて」


 最後に、そう言った。


 それだけだった。


 ――


 その後、香帆は優斗に会った。


 断れなかった。


 断る理由が、見つからなかった。


 駅前のベンチ。


 優斗は先に来ていた。


 いつも通りの顔で。


「大丈夫?」


 変わらない一言。


「……美咲のことなんだけど」


 香帆は言った。


「部屋に誰か入ったかもしれないって」


「そう」


 優斗の表情は変わらなかった。


「怖いよね」


 水を飲むみたいな口調だった。


「鍵は?」


「閉まってた」


「じゃあ、気のせいじゃない?」


「でも、合鍵は田中さんしか持ってなくて」


「うん」


「田中さんは行ってないって」


 少しだけ間があった。


 でも、すぐに戻る。


「じゃあ、前に誰か来たとか」


「でも、今日なの」


 香帆は言った。


 自分でも少し強いと思った。


 優斗は、ほんの一瞬だけ視線を外した。


 それだけだった。


「……考えすぎじゃない?」


 すぐに戻る。


 いつもの声で。


「最近、いろいろあったし」


 正しい言葉。


 でも、軽い。


 軽すぎる。


「優斗」


「ん?」


「拓海の事故の日のこと、聞いてもいい」


 空気が変わる。


 わずかに。


 でも確かに。


「あの日、どこにいたの」


 優斗はすぐには答えなかった。


 その沈黙が、やけに長い。


「仕事」


「ずっと?」


「ああ」


 田中は、覚えていないと言っていた。


 でも優斗は、迷わなかった。


「でも、病院に来たよね」


「香帆が心配だったから」


「私、連絡したっけ」


 優斗は一瞬だけ視線を外した。


「……したじゃないか」


「わからない」


 香帆は正直に言った。


「あの日のこと、あまり覚えてないから」


 少しだけ間があった。


「香帆」


 名前を呼ばれる。


「何が言いたいの?」


 逃げ場がない。


「……わからない」


 本音だった。


「でも、全部が変なんだよね」


 やっと出た言葉だった。


 優斗は小さく息を吐いた。


「証拠もないのに?」


 その一言で、香帆の呼吸が止まる。


 証拠。


 誰もそんな話はしていない。


 なのに、先に出てくる。


 心臓が、一度だけ強く打った。


「……証拠?」


「いや」


 すぐに言い直す。


「そういう話じゃないだろ」


 笑う。


 いつも通りに。


 でも、その一瞬は消えなかった。


 香帆は何も言えなかった。


 何かが、確実にずれている。


 でも、まだ掴めない。


 優斗が立ち上がる。


「送るよ」


 いつもの流れ。


 断れない距離。


 香帆も立ち上がる。


 並んで歩く。


 近い。


 息が詰まる。


 美咲の部屋。


 触られた空間。


 田中の言葉。


 優斗の声。


 全部が、頭の中で重なる。


 優斗の隣を歩いているだけなのに、苦しかった。

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