冷えた指先
美咲が田中に連絡したのは、拓海の葬儀が終わったと聞いた翌日だった。
香帆の様子が、ずっと引っかかっていた。
大丈夫と言う。
でも、全然大丈夫に見えなかった。
拓海のことだけじゃない。
優斗の話になると、香帆の声が少し変わる。
庇っている。
でも、どこか怯えているようにも聞こえる。
絵里も言っていた。
「あの人、ちょっと変じゃなかった?」
その言葉が、美咲の中に残っていた。
――
田中は、少し遅れて電話に出た。
「どうした?」
「今、大丈夫?」
「うん。ちょうど休憩」
いつも通りの声だった。
その普通さに、美咲は少しだけ迷った。
けれど、聞くなら今しかない。
「加藤さんのことで、ちょっと聞きたいことがある」
「加藤?」
「うん」
美咲は、声を落とした。
「これ、本人には言わないで」
「……何?」
田中の声が、少しだけ変わる。
「この前、拓海が事故に遭った日。加藤さんって、仕事どうだった?」
「事故の日?」
「うん」
少しの沈黙。
田中が記憶を探っているのがわかった。
「普通に出てたと思うけど……あの日、加藤いたっけな。正直あんまり覚えてない」
美咲はスマートフォンを握り直した。
「覚えてない?」
「うん。その日、俺も忙しくて。なんで?」
「ごめん、まだわかんない」
「美咲」
田中の声が低くなった。
「何かあった?」
「加藤さんには言わないで」
美咲は繰り返した。
「お願い。今はまだ」
田中は少し黙った。
「……わかった」
「あと、北村さんにも確認できる?」
「できるけど」
「自然に。変に聞かないで」
「わかった」
通話を切ったあと、美咲はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。
聞かなければよかった。
そう思った。
でも、もう聞いてしまった。
知らなかったことにはできない。
――
香帆に連絡したのは、その日の夜だった。
通話ボタンを押すまで、何度も迷った。
それでも、押した。
数回の呼び出し音のあと、香帆が出た。
「……美咲?」
声が疲れていた。
「今、少し話せる?」
「うん」
短い返事。
美咲は息を吸った。
「ごめん。勝手なことした」
「え?」
「鉄也に聞いた。加藤さんのこと」
電話の向こうで、香帆が黙った。
美咲は続ける。
「拓海の事故の日、加藤さんがどこにいたか、鉄也も覚えてないって」
「……覚えてない?」
「うん。確認できなかった」
香帆の息が、小さく止まった気がした。
「でも……」
声がかすれる。
「あの日、駅で優斗を見た気がした」
「うん」
「病院にも、来た」
沈黙のかわりに、美咲は短く息を吐いた。
「だから、おかしいと思った」
沈黙。
長かった。
香帆が何を考えているのか、美咲には見えない。
でも、今ここで曖昧にしたら駄目だと思った。
「香帆」
「……うん」
「加藤さんに、この話しないで」
「どうして」
「まだ、わからないから。でも先に確かめたい」
強く言いすぎたかもしれない。
でも、止められなかった。
「もし何かあるなら、先にこっちで確認したい」
「何かって……」
香帆の声が揺れる。
「私にもわからない」
美咲は正直に言った。
「でも、全部うまく繋がらない」
電話の向こうで、香帆は何も言わなかった。
美咲は、少しだけ声をやわらげる。
「ごめん。怖がらせたいわけじゃない」
「……わかってる」
「一人で抱えないで」
その言葉だけは、ちゃんと言いたかった。
「私もいるし、絵里もいる。鉄也にも、加藤さんには言わないでって頼んである」
「うん」
返事は小さかった。
でも、聞こえた。
電話を切ったあと、香帆はしばらく動けなかった。
部屋の中が静かすぎて、かえって耳が鳴るような気がした。
美咲の声だけが、何度も頭の中で繰り返される。
誰も、あの夜の優斗を知らない。
でも、あの日、駅で誰かを見た。
あれが優斗だったのか、今もわからない。
何が本当なのか、わからなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
全部が、優斗の言葉だけでは片づかなくなっている。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
優斗からだった。
『今、話せる?』
その文字を見た瞬間、香帆の指が止まった。
今までなら、すぐに出ていた。
でも、指が動かなかった。
呼び出しが止まる。
少し間を置いて、画面が光った。
『どうした?』
香帆は画面を見つめたまま、息を殺した。
返事は、できなかった。




