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疑念


 眠れなかった。


 目を閉じるたびに、同じ場面が浮かぶ。


 階段。


 落ちる体。


 伸ばした手。


 指先に残った感触。


 そこで、必ず止まる。


 香帆は起き上がり、スマートフォンを手に取った。


 美咲からのメッセージが残っている。


『帰れてる?』


 返せていなかった。


 その文字を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 画面を閉じようとして、別の声が頭に浮かぶ。


 ――あの人、ちょっと変じゃなかった?


 絵里の声だった。


 静かで、はっきりしていた。


 消えない。


 消そうとしても、残る。


 そこに、医師の声が重なった。


 ――あの高さからだと、非常に厳しい状態です。


 ――最悪のことも、覚悟しておいてください。


 証拠も、目撃者もない。


 防犯カメラもチェックしたが、人が多くて何も判断できなかったと。


 拓海のスマートフォンは、見つかっていない。


 あの日、階段の上に誰かがいた。


 全部、偶然だと言えば偶然で済む。


 でも。


 全部が重なると、息が苦しくなる。


 香帆は立ち上がった。


 考え続けるより、見に行った方がいい。


 そう思った。


 正しいのかどうかは、わからない。


 それでも、じっとしていられなかった。


 ――


 夜の駅は、静かだった。


 昼間とは別の場所みたいに、人が少ない。


 改札を抜ける。


 足が自然と、あの場所へ向かった。


 ホームへ降りる階段。


 香帆は、上段の手前で立ち止まった。


 何もしない。


 ただ、見る。


 段差。


 手すり。


 幅。


 踊り場。


 あの日と同じ場所。


 同じはずなのに、違って見える。


 ここから落ちた。


 そう説明されている。


 それは、事実だ。


 でも。


 どうやって。


 人が多かった。


 ぶつかったのかもしれない。


 足を滑らせたのかもしれない。


 そう考えれば、説明はつく。


 けれど、説明がつくことと、納得できることは違った。


 香帆は一歩だけ前に出た。


 あの日、自分が見た位置。


 拓海がいたはずの場所。


 そこに立った瞬間、背中が冷えた。


 思い出す。


 あのときの感触。


 誰かが触れた。


 押された、と言い切れるほどではない。


 でも、ただぶつかっただけとも思えない。


 曖昧だった。


 何も言えない。


 それが、怖かった。


 香帆は階段を見下ろした。


 喉が乾く。


 優斗は、あのときどこにいたのか。


 あの影は、本当に気のせいだったのか。


 なぜ、拓海のスマートフォンは消えたのか。


 考えが、ひとつずつ繋がりかける。


 そのときだった。


「香帆」


 背後から声がした。


 全身が強張った。


 心臓が、強く跳ねる。


 振り向く。


 優斗がいた。


 階段から少し離れた場所に、静かに立っていた。


 息も乱れていない。


 驚いた様子もない。


 まるで、最初からここに来ると知っていたみたいに。


「……なんで」


 声がかすれた。


「なんで、ここにいるの?」


 優斗は答えなかった。


 ただ、香帆を見ている。


 その沈黙が、余計に怖かった。


「……あとつけてきたの?」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。


「どうして、ここにいるってわかったの?」


 優斗は、ようやく口を開いた。


「眠れてない気がしたから」


「答えになってない」


 香帆は言った。


 言ってから、自分の声が震えていることに気づいた。


「私は、ここに来るなんて言ってない」


「言ってないね」


「じゃあ、なんで?」


 優斗は一歩だけ近づいた。


 香帆は、無意識に体を引いた。


 その動きに気づいて、胸が痛む。


 優斗は、それ以上近づかなかった。


「心配だった」


 静かな声だった。


「最近の香帆、ずっと無理してるから」


「それで、駅に来るの?」


「来るかもしれないと思った」


「どうして」


 香帆はすぐに返した。


「どうして、そんなにわかってるみたいに言うの」


 優斗は少しだけ視線を落とした。


「拓海さんのこと、気にしてたから」


 その名前が出た瞬間、胸の奥が静かになった。


「気にするよ」


 香帆は言った。


「拓海は死んだんだよ」


「わかってる」


「わかってるなら、どうしてそんなに落ち着いてるの」


 口に出していた。


 言うつもりはなかった。


 でも、止まらなかった。


 優斗は何も言わない。


 香帆は続けた。


「あの日も、駅にいたよね」


 優斗は一拍置いた。


「いなかったよ」


「……でも」


「疲れてるんだよ、香帆」


 穏やかな声だった。


 責めていない。


 ただ、否定した。


 香帆の手が、わずかに震える。


 自分が見たものが、また頼りなくなる。


「そればっかり」


 香帆の声が少し強くなる。


「心配だったら、なんでもわかるの?」


 沈黙。


 階段の下から、遠く電車の音が聞こえた。


「拓海のスマホ、見つかってない」


 香帆は言った。


 優斗の表情は変わらない。


「そうだね」


「知ってたの?」


「聞いたから」


「誰に?」


 優斗は答えるまでに、一拍置いた。


「香帆が言ってた」


 言った。


 確かに言った。


 でも、その答えが正しいことが、逆に怖かった。


 どこまで聞いているのか。


 どこまで覚えているのか。


 どこまで知っているのか。


 優斗が、少しだけ近づいた。


 香帆は動けなかった。


「香帆」


 優斗の声は、優しかった。


「今は、ちゃんと休んだ方がいい」


「……休む?」


「考えすぎると、全部悪い方に見える」


 正しい言葉だった。


 たぶん、誰が聞いてもそう思う。


 でも。


 その言葉は、香帆の中に入ってこなかった。


「拓海さんのことは、警察も見てる」


 優斗は続けた。


「事故だって説明されたんだろ」


 その言い方に、香帆は息を止めた。


 事故だって説明された。


 そうだ。


 たしかにそうだった。


 なのに、優斗の口から出ると、別の言葉に聞こえた。


 もう終わったことだ。


 もう考えるな。


 優斗は香帆の隣に立った。


 近い。


 近すぎる。


 でも、触れない。


 触れない距離で、逃げ道だけを塞いでいるように感じた。


「帰ろう」


 優斗が言った。


「送る」


「一人で帰れる」


「こんな時間に?」


 静かな問い。


 責めてはいない。


 でも、断れない。


 香帆は何も言えなかった。


 ポケットの中で、スマートフォンが震える。


 美咲からだった。


『帰れてる?』


 その文字を見た瞬間、少しだけ息が戻った。


 同時に、絵里の声が蘇る。


 ――あの人、ちょっと変じゃなかった?


 変。


 その言葉が、ようやく形を持つ。


 変だった。


 ずっと。


 最初から。


 でも、それを認めるのが怖かった。


 香帆はスマートフォンを握りしめた。


 優斗は、何も言わずに見ている。


 その視線が、優しいのか、見張っているのか。


 もう、わからなかった。


 階段の下から、電車の音が響いた。


 風が上がってくる。


 香帆はゆっくりと息を吐いた。


 偶然。


 心配。


 事故。


 全部、説明はつく。


 でも。


 全部が、優斗の言葉の中に収まっていく。


 そのことが、何より怖かった。


 香帆は初めて、はっきりと思った。


 この人は、何かを知っている。


 少なくとも。


 私が知らない何かを。

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