消えない重み
部屋に戻っても、何も変わらなかった。
あれから、しばらく経っているのに。
音が少ない。
人の気配がない。
部屋だけが、妙に広く感じた。
鞄を置いたまま、しばらく動けなかった。
どこから手をつけていいのか、わからない。
何をすればいいのかも、わからなかった。
息を吐く。
それだけで、疲れた。
翌日、美咲から連絡が来た。
『会える?』
短いメッセージだった。
少し迷って、返信する。
『うん』
待ち合わせたのは、駅から少し離れたカフェだった。
人が多すぎない場所。
それが、ちょうどよかった。
先に来ていた美咲が、手を上げる。
「香帆」
声は、思っていたより普通だった。
それが逆に、安心した。
「大丈夫?」
同じ質問だった。
でも、答えは変わらない。
「……わからない」
正直に言った。
美咲はそれ以上追わなかった。
「無理しなくていいからね」
それだけだった。
少しの沈黙。
カップを持ち上げる。
中身は、ほとんど減っていない。
扉が開く音がした。
顔を上げる。
絵里だった。
「ごめん、遅れた」
席に着きながら、香帆を見る。
その視線は、少し長かった。
様子を測るみたいに。
「……大丈夫?」
美咲と同じ言葉。
でも、ニュアンスが違った。
確認しているような。
香帆は頷いた。
それ以上は言わなかった。
絵里がカップに手を伸ばす。
少し間があった。
「……ねえ」
静かな声だった。
「一つだけ、聞いていい?」
香帆は顔を上げる。
頷く。
「加藤さん」
名前が出た瞬間、香帆の手が止まった。
「……ちょっと変じゃなかった?」
やわらかかった。
だからこそ、刺さった。
「そんなことないよ」
即答だった。
その速さに、自分でも驚いた。
否定したかったのか。
それとも、否定しなければいけない気がしたのか。
自分でも、わからなかった。
絵里はそれ以上踏み込まなかった。
ただ、小さく頷く。
「……そうならいいんだけど」
その言葉が、ずっと残った。
香帆がどれだけ飲み込もうとしても、残り続けた。
沈黙が落ちる。
香帆はカップを見た。
水面が、わずかに揺れている。
何もしていないのに。
その揺れだけが、気になった。
「……スマホ」
気づいたときには、口に出していた。
「拓海の」
二人が顔を上げる。
「あのとき、すぐ近くに落ちてたはずなのに。見つからなくて」
言葉にした瞬間、少しだけ現実になった。
「そうなの?」と美咲。
「……うん」
短く答える。
絵里は何も言わない。
ただ、視線が鋭くなった。
「優斗、あのとき……」
そこまで言って、止まる。
二人の目が、こちらに向く。
何を言おうとしていたのか。
わからない。
わからないふりをした。
「……なんでもない」
「香帆……?」と美咲。
「大丈夫」
すぐに言う。
「ちょっと……混乱してるだけ」
それで終わらせた。
それ以上、続けられなかった。
絵里は何も言わなかった。
ただ、じっと香帆を見ていた。
何かを確かめるみたいに。
その距離が、落ち着かなかった。
店を出たとき、外の空気が少し冷たかった。
「また連絡するね」と美咲。
「うん」
短く答える。
絵里も小さく頷いた。
「無理しないで」
それだけ言って、二人は別れた。
香帆は一人で歩き出す。
少し、頭が軽い。
でも。
胸の奥に残っているものは、消えなかった。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
優斗だった。
指が止まる。
それから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「今、どこ?」
落ち着いた声だった。
いつも通り。
「外」
「気をつけて帰れよ」
それだけだった。
「……うん」
短く答えた。
通話が切れる。
画面が暗くなる。
香帆はしばらく、そのまま立っていた。
「……変じゃなかった?」
絵里の声が、頭の中で繰り返される。
消えない。
消そうとしても、残る。
足が、止まった。
息が、少しだけ苦しくなる。
認めたくなかった。
認めてしまえば、すべてが変わる気がした。




