失ったもの
医師は、短く頭を下げた。
「……力を尽くしましたが」
その一言で、すべてが終わった。
続く説明は、ほとんど耳に入らなかった。
時間。損傷。処置。
言葉だけが流れていく。
意味は、どこにも残らない。
香帆は、ただ立っていた。
泣くこともできなかった。
隣で、美咲が声を上げた。
「……嘘でしょ」
崩れるように、その場にしゃがみ込む。
「だって、さっきまで……」
言葉が続かない。
泣き声だけが残る。
絵里は、何も言わなかった。
医師をまっすぐ見ている。
確認するように。
やがて、ゆっくりと視線を落とした。
受け止めたように見えた。
優斗の声がした。
「……ありがとうございました」
医師に向けた言葉だった。
落ち着いていた。
礼儀として、正しかった。
ただ、それだけだった。
医師が軽く頷き、その場を離れる。
誰も引き止めなかった。
現実だけが、残った。
「……香帆ちゃん」
振り向く。
拓海の母が立っていた。
いつ来ていたのか、わからなかった。
顔を見た瞬間、胸の奥がわずかに揺れる。
「久しぶりね」
穏やかな声だった。
涙は、まだ出ていない。
「……色々と、ありがとうね」
何に対してなのか、わからなかった。
香帆は、ただ頷いた。
声が、出なかった。
拓海の母はそれ以上何も言わず、医師の方へ歩いていった。
その背中を、見送るしかなかった。
――
時間の感覚が、なかった。
人が出入りする。
声が重なる。
また、静かになる。
香帆だけが、その流れから取り残されている。
ふと、思い出す。
「……スマホ」
小さく呟く。
拓海のスマートフォン。
あのとき、階段で手から離れていた。
すぐ近くに落ちていたはずだった。
なのに。
「見てない?」
美咲は首を振る。
絵里も、わからないと目で答える。
最後に、優斗を見る。
一瞬だけ、視線が横に逃げた。
「見てないよ」
自然な声だった。
香帆は、そのまま視線を落とした。
少ししてから、優斗が言った。
「……無理に思い出さなくていいよ」
気遣いだと思った。
思いたかった。
でも、その言葉が胸の奥に刺さったまま、抜けなかった。
病院の外に出る。
夜の空気が、少しだけ現実を戻す。
しばらく、何も言わなかった。
その沈黙が、逆に楽だった。
今は、それどころじゃない。
そう思った。
そう思うしかなかった。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
優斗ではなかった。
桐島からだった。
少しだけ迷ってから、通話ボタンを押す。
「中村さん?」
いつもの声だった。
「本日、連絡がなかったので。体調、大丈夫ですか」
状況を知らない声。
それが、少し遠く感じる。
「……すみません」
うまく言葉が出てこない。
「無理なさらなくて大丈夫ですよ」
短い間。
「何かあれば、こちらで対応しますので」
それだけだった。
踏み込まない。
聞きすぎない。
それが、少しだけ救いだった。
通話が切れる。
画面が暗くなる。
現実だけが、静かに戻ってきた。
数日後。
葬儀は家族だけで静かに行われ、連絡が来たのはそれが終わってからだった。
警察も、事故として処理したと聞いた。
それでも、あの夜の違和感だけは、消えなかった。
拓海は、何を知っていたのか。




