夜の温度
病院の待合は、静かだった。
時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。
香帆は椅子に座ったまま、動けなかった。
拓海は集中治療室に入ったと説明された。
面会はできない。
容体は、まだ安定していない。
それだけが、頭の中に残っている。
隣に、優斗がいる。
何も言わずに、ただ座っている。
それが支えのはずなのに、どこかで息が詰まる。
香帆はスマートフォンを握った。
拓海の実家に連絡しなければならない。
それはわかっている。
でも。
自分がしていいのか、わからなかった。
何て言えばいいのかも、わからない。
事故に遭った。
病院にいる。
それだけでいいのか。
それ以上は。
指が止まる。
迷った末に、母の名前を押した。
呼び出し音。
一回。
二回。
「……もしもし?」
聞き慣れた声だった。
その瞬間、張り詰めていたものが少しだけ崩れる。
「お母さん……」
「どうしたの」
「拓海が……事故で……」
向こうの空気が変わる。
「どこ?」
「○○病院……」
「わかった。すぐ、拓海くんの家に連絡する」
余計な言葉はなかった。
通話が切れる。
香帆はスマートフォンを握ったまま、しばらく返事ができなかった。
これでいいのかどうかは、わからない。
でも。
これしかできなかった。
足音が近づいてきた。
「香帆!」
顔を上げる。
美咲だった。
その後ろに、絵里がいる。
「……ごめん、遅れて」
絵里が小さく言った。
呼吸を整えながら、香帆を見る。
「この前は仕事で行けなかったけど……久しぶりに会えるの、楽しみにしてたのに」
言葉の最後が、少し崩れる。
美咲がすぐに言った。
「何言ってるの」
強い口調だった。
「まだ、わかんないでしょ」
言い切った。
香帆は何も言えなかった。
ただ、二人を見ていた。
現実が少しずつ戻ってくる。
そのとき、医師が呼ばれた。
「中村さん」
名前を呼ばれ、香帆は立ち上がる。
美咲と絵里も、一緒に立つ。
優斗も、静かに後ろについた。
小さな説明室に通される。
椅子に座る。
医師が正面に立つ。
静かな声だった。
「頭部への衝撃が大きくて……あの高さからだと、非常に厳しい状態です」
その言葉だけが、はっきりと残った。
「最善は尽くしていますが……最悪のことも、覚悟しておいてください」
続けて言われる。
淡々としているのに、重い。
言葉が、空気の中に沈む。
美咲が息を呑む。
「……そんな」
小さく呟く。
絵里は、何も言わなかった。
医師をまっすぐ見ている。
確認するように。
香帆は、理解できなかった。
意味はわかる。
でも、現実として受け取れない。
言葉だけが、浮いている。
優斗が小さく頭を下げた。
何も間違っていないはずなのに、香帆の胸の奥で何かが冷えた。
医師が軽く頷き、部屋を出ていく。
誰も動けなかった。
沈黙だけが残る。
待合に戻る。
さっきと同じ場所のはずなのに、違う場所みたいだった。
時間の流れが、変わってしまったみたいだった。
絵里が、香帆の隣に座った。
何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
それだけで、少しだけ息ができた。
美咲は少し離れた位置に立っていた。
全体を見ている。
しばらくして、優斗に向けて口を開いた。
「……どういう状況だったんですか?」
香帆でも絵里でもなく、優斗に。
「駅で、階段を踏み外して。人が多くて、バランスを崩したみたいで」
淀みがなかった。
用意されていたみたいに。
「……そうですか」
美咲は頷いた。
それ以上追わなかった。
ただ、答えを聞いた後の美咲の表情が、少しだけ変わった気がした。
香帆には、その意味がわからなかった。
香帆は、それ以外のことを、考えられなかった。
医師の言葉が、頭の中で繰り返される。
非常に厳しい状態です。
最悪のことも、覚悟しておいてください。
意味はわかる。
でも。
受け入れられなかった。




