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崩れない


 その夜のことを、香帆はうまく思い出せなかった。


 断片だけが残っている。


 人のざわめき。


 誰かの声。


 拓海の名前を呼んだこと。


 それ以外は、曖昧だった。


 気がつくと、病院の待合椅子に座っていた。


 廊下は静かだった。


 時折、ナースステーションの方から声が聞こえる。


 それだけだった。


 現実感がなかった。


 夢の中にいるみたいだった。


「中村さん」


 名前を呼ばれて、顔を向ける。


 看護師だった。


 何かを説明される。


 言葉は聞こえている。


 意味だけが、頭に入ってこない。


 事故。


 搬送。


 意識が戻っていないこと。


 単語だけが、浮かんでは消えた。


「……ご家族の方は」


 香帆は少し間を置いた。


「……連絡します」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


 看護師が何かを言って、離れていく。


 また、静かになる。


 時間の感覚が、なかった。


 どれくらい経ったのかもわからない。


 足音が近づいてくる音がした。


「香帆」


 優斗の声だった。


 顔を上げる。


 そこに、優斗がいた。


 自分が呼んだのか、呼んでいないのか。


 それすら、わからなかった。


 いつも通りの表情。


 落ち着いた声。


 それを見た瞬間、少しだけ息ができた。


「大丈夫か」


「……うん」


 言いながら、自分でも何が大丈夫なのかわからなかった。


 優斗はゆっくりと近づいてきて、隣に座った。


「大丈夫なのか」


「……まだ、わからない」


 それ以上、聞けなかった。


 聞けば、何かが決まってしまう気がした。


 その距離が、近かった。


 安心するはずの距離。


 なのに、少しだけ落ち着かなかった。


「無理するな」


 優斗が言った。


「今日はもう、休め」


 その声は、いつもと同じだった。


 優しい。


 落ち着いている。


 正しいことを言っている。


 だからこそ、否定できなかった。


「……うん」


 短く答える。


 会話が途切れる。


 静寂が戻る。


 廊下の向こうから、また誰かの足音が聞こえる。


 香帆は視線を落とした。


 自分の手を見る。


 何もついていない。


 血も、汚れも。


 さっきまで、そこに触れていたはずなのに。


 実感がなかった。


「……さっき、駅にいた?」


 優斗は一拍置いた。


「見間違いじゃない?」


 穏やかな声だった。


 責めていない。


 ただ、やわらかく否定した。


「……そっか」


 自分が見たものが、急に頼りなくなった。


 それ以上は聞かなかった。


 聞けなかった。


 聞けば、何かが崩れる気がした。


 優斗は何も言わなかった。


 ただ、そこにいた。


 香帆のそばに。


 静かに。


 逃げ場を塞ぐみたいに。


 そう思った瞬間、自分でも驚いた。


 違う。


 そんなはずはない。


 優斗は、助けてくれた。


 あのときも。


 ホームで。


 手を引いてくれた。


 あれがなかったら、自分は――


 そこまで考えて、止まった。


 呼吸が浅くなる。


 何かが、繋がりかけた。


 でも、うまく形にならない。


 ただ、違和感だけが残る。


 優斗が立ち上がった。


「飲み物、買ってくる」


「……ありがとう」


 優斗が廊下の奥へ消えていく。


 足音が遠ざかる。


 静かになる。


 香帆は一人になった。


 ようやく、肩が下りた。


 いつの間に、力が入っていたのか。


 いない方が、楽だった。


 その言葉が浮かんだ瞬間、息が止まる。


 優斗がいると、安心するはずなのに。


 目を閉じる。


 さっきの光景が、断片的に浮かぶ。


 階段。


 落ちる体。


 届かない距離。


 そして。


 階段の上に立っていた人影。


 あの位置に、誰かがいた。


 それだけは、確かだった。


 香帆は目を開けた。


 廊下は、また静かになっていた。


 何も変わらない。


 何も、はっきりしない。


 胸の奥に残ったものだけは、消えなかった。


 安心ではなかった。


 名前のつかない、違和感だった。


 それを、優斗に結びつけたくなかった。

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