届かない声
翌日の夕方、拓海は香帆にメッセージを送った。
『今夜、少しだけ会える?』
送信してから、画面を見つめる。
ポケットの中のスマートフォンが、やけに重い。
昨夜の録音が残っている。
――守っているんです。
――また大事な人を失うのに耐えられない。
あの声が、まだ耳に残っていた。
今夜、話す。
それしかない。
返信は、十九時前に来た。
『今日は少し遅くなるかも。どうしたの?』
拓海は一度、
『優斗さんのことで』
と打って、消した。
強すぎる。
もう一度打つ。
『少し話したいことがあって』
送信。
すぐに既読がつく。
少し間があって、返事。
『わかった。二十分くらいなら』
短い。
でも、それで十分だった。
――
駅に向かう途中、何度も背後を振り返った。
誰かに見られている気がする。
気のせいかもしれない。
でも、消えない。
駅前の明かり。
人の流れ。
その中に、いた。
優斗。
柱の陰。
人の流れから半歩外れた位置。
静かに立っている。
視線だけが動く。
こちらを見ているようで、見ていない。
だが、目が合った瞬間、わかった。
――わかっている。
拓海はスマートフォンを取り出した。
『今すぐ話したい。優斗さんには言わないで。』
そこまで打つ。
送信ボタンに指を置く。
そのとき、肩にぶつかる衝撃。
「すみません」
振り返る。
人の流れ。
誰かわからない。
もう一度、画面を見る。
送るべきだ。
だが、視線。
また、優斗がこちらを見ている。
逸らさない。
動かない。
ただ、見ている。
拓海の指が止まる。
今送れば、どうなる。
香帆が見る。
優斗がいる。
その場で、何かが起きる。
違う。
直接渡す。
録音を聞かせる。
その方が確実だ。
拓海はメッセージを消した。
顔を上げる。
優斗の姿が消えていた。
さっきまでいた場所に、もういない。
それが一番、おかしかった。
――
改札前は混んでいた。
人の流れが絶えない。
拓海は逆流するように歩いた。
香帆を探す。
階段の上に、見えた。
改札階からホームへ降りる階段。
香帆が、人の流れに乗って降りてくる。
まだ、こちらに気づいていない。
「香帆!」
声を上げる。
届かない。
もう一歩、踏み出す。
その瞬間。
背中に、強い衝撃が走った。
人とぶつかった、だけじゃない。
押された。
そう感じるほど、不自然な力だった。
足元がずれる。
視界が傾く。
咄嗟に手すりへ手を伸ばす。
指先が、届かない。
体が、落ちた。
音が響く。
止まらない。
踊り場に叩きつけられる。
それでも止まれない。
背後から降りてくる人の流れが、さらに体を押した。
視界が回る。
最後に、鈍い音。
頭が段差の角に叩きつけられた。
音が消えた。
――
香帆は、何が起きたのかわからなかった。
名前を呼ばれた気がした。
振り向いた。
階段。
人の流れ。
そして、転がり落ちる拓海の姿。
時間が止まる。
「拓海!」
駆け寄る。
人をかき分けて、階段を下りる。
拓海は、動かなかった。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
呼びかける。
返事はない。
胸の動きも、見えなかった。
香帆は、その事実をしばらく受け取れなかった。
音だけが、周囲に広がっていく。
誰かの声。
「……やばいだろ」
「動いてないよな……」
遠くで聞こえる。
香帆は理解できなかった。
理解したくなかった。
手を伸ばす。
触れる。
温度がある。
でも、反応がない。
「拓海……?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
何も、返ってこない。
その静けさだけが、はっきりしていた。
周囲がざわつく。
誰かが駅員を呼ぶ。
人が集まる。
香帆は動けなかった。
そのとき。
背後に、気配があった。
振り向く。
階段の上。
人の流れが続いている。
誰かが立っていた気がした。
でも、次の瞬間には見失った。
誰かが叫ぶ。
「救急車呼んで!」
現実が、遅れて戻ってくる。
香帆は拓海の名前を呼び続けた。
返事は、最後までなかった。




