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対峙


 拓海が優斗に声をかけたのは、二月最初の週末だった。


 香帆の会社の最寄り駅。


 改札から少し離れた、柱のそば。


 優斗は、いつものようにそこにいた。


 動かずに。


 人の流れを見ていた。


 拓海は、深く息を吸った。


 逃げるな。


 そう自分に言い聞かせて、一歩近づいた。


「加藤さん」


 優斗が、ゆっくりと振り向いた。


 驚いた様子はなかった。


 まるで、来るのがわかっていたみたいだった。


「田所さん、でしたよね」


 静かな声だった。


「少し、話せますか」


 優斗は一度だけ改札の方を見た。


 それから、拓海に視線を戻した。


「香帆は、今日は遅いですよ」


 拓海の喉が、わずかに詰まった。


「……なんで知ってるんですか」


「本人から聞きました」


 答えは早かった。


 用意されていたみたいに。


「そうですか」


 拓海はスマートフォンを握った。


 録音アプリは、もう起動してある。


 画面を伏せたまま、ポケットの中で録音が続いている。


「最近、よくここにいますよね」


「そうですか」


「偶然ですか」


「心配なので」


 優斗は表情を変えなかった。


「彼氏なら、普通じゃないですか」


 普通。


 その言葉が、やけに冷たく聞こえた。


「七件も電話するのも、普通ですか」


 優斗の目が、ほんのわずかに細くなった。


「香帆から聞いたんですか」


「見ました」


「そうですか」


 責めるでも、慌てるでもない。


 ただ、受け取った。


 それだけで、拓海の背中が冷えた。


「香帆、怖がってましたよ」


「怖がっていた?」


 優斗は、少しだけ首を傾げた。


「あなたに、そう言ったんですか」


 拓海は答えられなかった。


 言っていない。


 香帆は、何も言っていない。


 拓海が勝手に見て、勝手に気づいただけだ。


 優斗は、その沈黙を見逃さなかった。


「言っていないんですね」


 静かな声だった。


「だったら、それは田所さんの想像ですよ」


 拓海は奥歯を噛んだ。


 会話の主導権を、取られている。


 こちらが問い詰めているはずなのに、いつの間にか、こちらが説明を求められている。


「香帆の帰る時間を、どうして毎回知ってるんですか」


「毎回?」


「ここにいる日、外してない」


 優斗は少しだけ笑った。


「毎日いるわけじゃありません」


「でも、いる日は必ずいる」


 沈黙が落ちた。


 人の流れだけが、二人の横を通り過ぎていく。


 優斗は、拓海を見ていた。


 その目に、苛立ちはなかった。


 焦りもない。


 ただ、こちらを見ている。


 何を考えているのか、読ませない目だった。


「田所さんは、香帆の何なんですか」


 優斗が言った。


「幼馴染です」


「中学まで、ですよね」


 拓海の指先が冷えた。


「……香帆から聞いたんですか」


「ええ」


 本当に聞いたのか。


 それとも、調べたのか。


 わからなかった。


「家も近所だったそうですね」


 拓海の中で、何かが止まった。


 その話は。


 香帆が言ったのか。


 言ったかもしれない。


 でも、いつ。


 どの流れで。


 疑問が次々に浮かんだ。


 優斗は、穏やかな声のまま続けた。


「だから心配なんですか」


「……心配して何が悪いんですか」


「悪くないですよ」


 即答だった。


 拓海は優斗を見た。


「その今の生活を、あなたが全部見てるんですか」


 初めて、優斗の表情が少しだけ止まった。


 ほんの一瞬。


 それでも拓海にはわかった。


 刺さった。


 そう思った。


「見ているんじゃありません」


 優斗は言った。


「守っているんです」


 その言葉に、熱はなかった。


 守っている。


 そう言いながら、その声はどこまでも平らだった。


「守るって、香帆の行動を全部把握することですか」


「全部ではありません」


「じゃあ、どこまで」


 優斗は答えなかった。


 改札の方へ視線を向ける。


 人が流れている。


 香帆はいない。


 まだ、来ない。


「田所さん」


 優斗が言った。


「これ以上、香帆を不安にさせないでください」


「不安にさせてるのは、あなたじゃないんですか」


「違います」


 即答だった。


 あまりにも早かった。


「香帆は、不安定なんです」


 拓海は、言葉を失った。


 その言い方が、気味悪かった。


 香帆のことを、香帆より知っているみたいに。


 当然のように。


「あなた、本当に何なんですか」


 声が低くなった。


 優斗は答えない。


 ただ、拓海を見ていた。


 ――


 拓海は一歩、下がった。


 これ以上ここで話しても、何も出ない。


 録音もある。


 確証にはならない。


 でも、香帆に話すきっかけにはなる。


「香帆に話します」


 拓海は言った。


 優斗は動かなかった。


「何をですか」


「あなたのことです」


「俺の何を?」


「自分で考えてください」


 拓海は背を向けた。


 その瞬間、優斗の声が後ろから落ちた。


「やめた方がいいですよ」


 拓海は足を止めた。


 振り返らない。


「香帆は、また大事な人を失うのに耐えられない」


 ――また。


 拓海の呼吸が止まった。


 この場で、その言葉を使うのか。


 牽制みたいに。


 拓海はゆっくりと振り返った。


「……今、何て言いました」


 声が、自分でも思ったより低かった。


 優斗は、静かに立っていた。


 口元に、薄い笑みがあるようにも見えた。


「香帆を不安にさせるな、と言いました」


「違う」


 拓海の声が震えた。


「今、別のことを言った」


「そうですか」


 優斗はそれ以上、何も言わなかった。


 人の流れが、二人の間を一瞬遮る。


 次に見えたとき、優斗はもう改札の方を見ていた。


 会話は終わりだと言われた気がした。


 ――


 拓海はポケットの中のスマートフォンを握り締めた。


 録音。


 入っている。


 今の会話が。


 今の一言が。


 手が震えていた。


 やっと掴んだ。


 まだ弱い。


 でも、何かはある。


 確かにある。


 拓海は駅を出た。


 夜風が、顔に当たる。


 すぐに香帆へ送ろうと思った。


 スマートフォンを開く。


 メッセージ画面。


 香帆の名前。


 書いて、消す。


 また書いて、消す。


 強すぎれば、香帆は閉じる。


 弱すぎれば、伝わらない。


 そのとき、背後で足音が止まった気がした。


 振り返る。


 誰もいない。


 それでも、背中に冷たいものが貼りついていた。


 拓海はスマートフォンを閉じた。


 今夜じゃない。


 明日、直接会う。


 そう決めた。


 拓海は歩き出した。


 握ったスマートフォンの中で、録音ファイルだけが静かに残っていた。

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