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不穏


 毎日来るわけにはいかなかった。


 拓海にも仕事がある。


 東京に来てまだ日が浅く、定時で上がれる日ばかりではない。


 それでも、あの日から、頭のどこかにずっと引っかかっていた。


 優斗。


 改札の横に立ち、香帆を見ていた男。


 何度も考えた。


 思い違いかもしれない。


 久しぶりに会った幼馴染を心配しすぎているだけかもしれない。


 でも、あの目が消えなかった。


 こちらに気づいていながら、何事もないように視線を外した、あの目。


 ――


 仕事帰りに時間が合った日だけ、拓海はその駅に寄った。


 張り込む、というほど大げさなものではない。


 ただ、少し遠回りをする。


 改札が見える場所に立つ。


 十分だけ。


 十五分だけ。


 人の流れを見る。


 ただ、それだけ。


 けれど、三度目の夜。


 優斗は、またいた。


 柱のそば。


 人の流れを邪魔しない場所。


 待ち合わせに見える位置。


 けれど、拓海にはもう、そうは見えなかった。


 優斗は誰かを探しているのではない。


 最初から、誰が来るのかわかっている。


 ただ、そこに立っている。


 そんなふうに見えた。


 拓海は人混みに紛れながら、距離を取った。


 声をかけるつもりだった。


 今夜こそ、そう思っていた。


 何をしているのか。


 どうして香帆の帰りを知っているのか。


 聞かなければならない。


 でも、足はすぐには動かなかった。


 証拠がない。


 問い詰めても、どうとでも言い逃れできる。


 近くにいた。


 待っていただけ。


 彼氏だから。


 そう言われたら、それで終わる。


 ――


 そのとき、改札の奥に香帆の姿が見えた。


 少し疲れた顔をしていた。


 鞄を肩にかけ直しながら、前を見て歩いてくる。


 優斗の視線が止まった。


 ほんのわずかに、空気が変わる。


 拓海はそれを見逃さなかった。


 香帆が優斗に気づく。


 少し驚いた顔をした。


 それから、何かを言った。


 声は聞こえない。


 でも、口の動きでわかる。


 ――どうしたの。


 そんな言葉だった。


 優斗は笑った。


 静かな笑い方だった。


 香帆に近づく。


 自然に。


 当たり前のように。


 拓海は一歩、踏み出した。


 今だと思った。


 香帆がいる前なら、優斗も変なことはしない。


 そう考えた。


 だが、その瞬間。


 優斗の視線が、こちらに向いた。


 まっすぐ。


 迷いなく。


 気づいている。


 拓海の足が止まった。


 優斗は表情を変えなかった。


 ただ、香帆の背中に軽く手を添えた。


 それだけだった。


 けれど、その一動作で、香帆の進む向きが変わった。


 改札の方ではなく、駅ビルの通路へ。


 人の流れが二人を飲み込む。


 拓海は追いかけようとして、すぐに足を止めた。


 見失うほどの距離ではない。


 けれど、近づけば気づかれる。


 いや。


 もう気づかれている。


 優斗は、最初からそれをわかっている。


 拓海が近づく前に、香帆を動かした。


 声をかける隙を消した。


 それが偶然とは思えなかった。


 ――


 拓海は人波の中で立ち止まった。


 悔しさが、喉の奥に残る。


 今、行くべきだったのか。


 いや、違う。


 行っても、何も取れない。


 むしろ、香帆に不安を与えるだけだ。


 香帆はまだ気づいていない。


 気づいていないまま、優斗の隣を歩いている。


 それが一番、危うかった。


 駅ビルのガラス越しに、二人の姿が見えた。


 優斗が何かを言う。


 香帆が小さく頷く。


 その横顔は、安心しているようにも見えた。


 でも、拓海には違って見えた。


 考えることをやめている。


 そんな顔に見えた。


 次の瞬間、優斗が振り返った。


 距離があった。


 人混みもあった。


 それでも、目が合った。


 優斗は笑わなかった。


 ただ、口元が動いた。


 一語だけ。


 拓海には読めた。


 ――来るな。


 胸の奥に、熱いものが広がる。


 怒りとも恐怖とも違う、もっと原始的な何かだった。


 でも、拓海は動かなかった。


 ここで突っ込んでも駄目だ。


 あの男は、自分が見られていることを知っている。


 そして、それでも平然としている。


 なら、正面から行っても負ける。


 別の手が必要だった。


 ――


 拓海はスマートフォンを取り出した。


 香帆に送ろうとして、指が止まる。


 今、送ればどうなる。


 優斗の隣で通知が鳴る。


 香帆が見る。


 優斗も気づく。


 それでは意味がない。


 拓海は画面を閉じた。


 今じゃない。


 そう思うしかなかった。


 その夜、拓海は二人を追わなかった。


 追えなかった、の方が正しい。


 ただ、駅の柱のそばに立ったまま、人の流れが薄くなるまでそこにいた。


 優斗が立っていた場所。


 そこから見える景色を、自分の目で確かめた。


 改札。


 階段。


 駅ビルへの通路。


 ホームへ向かう人の流れ。


 すべてが見渡せる。


 そこに立てば、香帆がどこから来て、どこへ向かうかがわかる。


 誰といるかも。


 拓海は奥歯を噛んだ。


 あの男は、ここから見ていた。


 一度や二度じゃない。


 たぶん、ずっと。


 優斗は、毎日いるわけじゃない。


 でも、いる日は必ずそこにいる。


 確信に近いものが、胸の底に沈んだ。


 けれど、まだ足りない。


 証拠がない。


 香帆に言っても、信じてもらえるとは限らない。


 むしろ、優斗に話が伝わるかもしれない。


 それが一番まずい。


 ――


 拓海は駅を出た。


 夜風が冷たかった。


 歩きながら、ようやくスマートフォンを開く。


 香帆へのメッセージ画面を出した。


 何度も書きかけて、消した。


 気をつけろ。


 あの男はおかしい。


 優斗を信用するな。


 どれも違う。


 強すぎる。


 証拠がない。


 香帆を追い詰めるだけだ。


 しばらく考えて、拓海は短く打った。


 今度、少し話せる?


 送信ボタンの上で指が止まる。


 結局、その日は送らなかった。


 画面を閉じる。


 もう十分だった。


 次に会ったら、声をかける。


 そう決めた。


 駅前の明かりが遠ざかっていく。


 背後に、誰かの足音が重なった気がした。


 拓海は振り返った。


 人影はなかった。


 それでも、しばらくその場を動けなかった。


 見ているのは、自分だけじゃない。


 あの男も、こちらを見ている。

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