支配
週明けの朝、香帆はいつもより早く目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光が、やけに白く感じられた。
昨夜のことを思い出す。
フォレストテーブルで笑っていた時間。
そのあとに残った、説明のつかない違和感。
優斗の声。
心配しただけだから。
優しいはずの言葉が、なぜか胸に引っかかっている。
香帆はゆっくりと起き上がり、支度を始めた。
考えすぎだと思おうとした。
そうしないと、何かが崩れそうだった。
――
駅のホームに立つと、自然と足元に意識が向いた。
黄色い線。
その向こう側。
あの日の感触が、よみがえる。
背中を押されたような感覚。
体が前に傾いた瞬間。
腕を引かれた、あの力。
優斗が助けてくれた。
それは事実だ。
でも、なぜあの位置にいたのか。
なぜあのタイミングで動けたのか。
その問いだけが、答えのないまま残っている。
電車が、滑り込んでくる。
風が顔を叩いた。
体が、一瞬だけ固まった。
人の流れに押されるように乗り込んだ。
――
会社に着くと、いつもの空気があった。
電話の音。
キーボードの音。
誰かの笑い声。
その中に入ると、少しだけ現実に戻れた気がした。
デスクに座り、パソコンを立ち上げる。
メールを開き、今日の予定を確認する。
いつも通りのはずだった。
「中村さん」
背後から声がした。
桐島だった。
振り返る前に、体がわずかに強張る。
「昨日、楽しかった?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……はい」
答えながら、自分の声が少しだけ硬いのがわかった。
「いいね。友達?」
「はい」
「地元の?」
香帆は顔を上げた。
「……どうしてですか」
「なんとなく」
桐島は笑った。
軽い笑顔だった。
でも、視線だけが近かった。
「中村さん、そういうとき顔に出るから」
見られている。
そう思った。
何を、とは言えない。
でも、最近ずっと同じ感覚がある。
「今度、よかったら一緒に飯でもどう?」
「すみません。予定があるので」
即答だった。
予定はなかった。
「そっか」
桐島はあっさり引いた。
それが逆に、気味が悪かった。
足音が離れていく。
香帆は画面に視線を戻したまま、小さく息を吐いた。
――
昼休み、スマートフォンが震えた。
美咲からだった。
『昨日はありがとうね。楽しかった』
香帆は少しだけ笑って、返信を打つ。
『こっちこそ。ありがとう』
すぐに既読がついた。
『また行こうよ』
そのあと、もう一件届く。
『加藤さん、怒ってなかった?』
指が止まった。
怒ってない。
それは本当だ。
でも、何かが違う。
『違うよ』
指だけが、先に動いていた。
『ならいいけど。昨日ちょっと顔色悪かったからさ』
『何かあったら言ってね』
優しい言葉だった。
でも、その優しさに、答えられなかった。
何があったのか、自分でもわからない。
わからないものは、説明できない。
スマートフォンを伏せた。
――
会社を出ると、空はすっかり暗くなっていた。
駅へ向かう道を歩く。
人通りは多い。
それなのに、背中が落ち着かなかった。
足音が重なる。
振り返る。
誰もいない。
ただの通行人。
それでも、何かが引っかかる。
歩く速度を少し上げた。
駅の明かりが近づく。
改札の前に、人影が見えた。
優斗だった。
一瞬、足が止まる。
「……え、なんで」
思わず声が出た。
優斗は、少しだけ笑った。
「お疲れさま」
「どうしたの?」
言いながら、胸の奥がざわつく。
「近くにいたから」
短い答えだった。
来た、じゃない。
いた。
最初から、そこにいたみたいな言い方だった。
「そうなんだ」
それ以上は聞けなかった。
聞けば――何かが、取り返しのつかない形で変わる気がした。
改札を抜ける。
二人でホームへ向かう。
階段を上がる途中、香帆は一度だけ後ろを振り返った。
人の流れがある。
その中に、誰かがいた気がした。
でも、次の瞬間には、もうわからなかった。
「どうした?」
「……なんでもない」
前を向く。
優斗は何も言わなかった。
少し後ろを歩く。
人が近づくと、自然に間に入る。
守られている。
そう感じた。
――それとも。
逃げ道を、塞がれている?
ホームに電車が入ってくる。
風が吹く。
香帆は無意識に一歩下がった。
優斗の手が、軽く背中に触れた。
「大丈夫」
静かな声だった。
香帆は頷いた。
電車に乗り込む。
窓に映る自分の顔が、少し青く見えた。
隣に、優斗が映っている。
優斗は、こちらを見ていなかった。
視線は窓の外――
流れていく景色の中の、どこか一点に向いていた。
止まっていた。
景色は動いているのに、その目だけが動かなかった。
誰かを、探しているみたいに。
香帆は、その目が怖くて、目をそらした。
光が流れていく。
安心できるはずの場所にいる。
優斗の隣にいる限り、この感覚は消えない気がした。
でも、離れることもできない。
窓の外を、ずっと見ていた。




