エピローグ 井上美穂②
鏡台の前でメイクをする。大学生になったばかりの私の化粧はまだまだ初心者レベルだけれど、今日はいつもより丁寧に、時間をかけてメイクをする。おろしたての水色のワンピースを着て、姿見の前に立った。
少し子供っぽいかな。
鏡の中の眉間にしわが寄る。私はワンピースをベッドの上に脱ぎ捨てて、何度もクローゼットを物色した挙句、最終的にはラフなチノパンに白いブラウスを合わせた。無難すぎるとも思ったが、今日だけは油断するわけにはいかないのだ。
お母さんは薄々気付いていたようだけれど、自分からは両親に何も話していない。
午前十一時、私はリュックを背負うと、最近買ったばかりのお気に入りのスニーカーを履いて、玄関のドアを開けた。
初夏の日差しは思いのほか強く、少し速く歩いただけでもじんわりと汗ばむくらいだった。駅のホームで電車を待っている間も、待ち合わせの時間や場所が間違えていないか、私は姉とのショートメッセージのやりとりを何度も見返した。
電車は定刻通りにやってきた。日曜日の車内は平日の朝ほどではないにしろ、買い物袋を抱えたおばあさんや、広げたスポーツ新聞に目を凝らして読む中年おじさんなど、休日に外出する種々雑多な人たちが乗り合わせていた。
私はなんとか空いている席を見つけて座った。正面にはこれからデートにでも向かうのだろうか、ワックスでしっかり髪型をキメた同年代くらいの若い男がそわそわしながらスマホ画面を何度も見返していた。
その気持ちはなんとなくわかる。もっとも、私はデートではないけれど。
目的の駅で降りた私は、待ち合わせの時間まで少し時間があったので、近くの本屋に立ち寄ることにした。
中に入ると、入り口近くの台に今月の新刊がバラ積みされていた。社会情勢に関するものや著名人の対談本などもあったけれど、私の視線は自然と文芸作品に向かう。
台の上には、高橋孔明や岩村悠斗、御手洗みのりといった、最近話題の作家の作品が店員の手書きのポップとともに並んでいる。
〝衝撃の新人現る〟〝ネットで大反響〟〝重版決定〟
目立つ字体につられて一冊手にとった。中身をパラパラとめくってみる。昔から本を読むのは好きだった。嫌なことがあった日も、物語を読んでいると自然と気持ちが和らいで、気がつけば時間が経過しているなんてことはしょっちゅうだった。だからってわけでもないけれど、私が今年進学したのも文学部だ。
はっとなって腕時計を見た。もう少し読んでいたいけど、今日はそれどころではない。
私は手にとった一冊を丁寧に元の位置に戻すと、書店を出た。
姉たちとは、正午に駅前広場の噴水で待ち合わせをしていた。本屋から広場に向かう足取りは自然と速くなっていく。一歩を踏み出す度に心臓がドクドクと跳ねるのを感じた。
私が広場に着いたとき、時計の針は十一時五十二分を指していた。
子ども連れやカップルなどが噴水の周りではしゃぐ笑顔が陽光を反射した水しぶきを通してきらきらと輝いていた。
ふと、近くのベンチに一人の女性が座っているのを見つけた。時計をちらちらと気にしながら、周囲の様子を伺っている。
ゆっくり近づくと、顔を上げた彼女の視線がこちらを捉えた。彼女はすっと立ち上がると、私の方へ歩いてきた。
「もしかして、美帆さん?」
覗き込むようにして、恐る恐る話しかけてきた彼女の目には、不安と期待が入り混じっていた。
私が小さく頷くと、彼女はやっぱりと言って、その小さな顔に大輪の笑顔を咲かせた。
「はじめまして、大野美咲です」
明るく自己紹介する初対面の姉。
「こ、こちらこそ、はじめまして」
井上美穂です、と名乗りながら、この名字も昔はこの人が使っていたんだろうなと思ったけれど、目の前に立つ彼女は私の名前を聞いて、とても嬉しそうに優しく微笑んだ。
彼女はデニム地のカジュアルなワンピースを着ていた。肩まで伸びた黒髪を後ろで結び、露わにした耳には小さなピアスが光っていた。
凛とした印象を与えるが、柔らかな表情がどこか私に安心感を与える。私の視線に気づいたのか、彼女は少し照れたように言った。
「普段はこういうのあまり着ないんだけど、せっかく美帆さんに会うんだから、ちゃんとした格好じゃないとって美紅に・・・ああ、もう一人の妹ね、彼女にそう言われたのよ」
「とても、素敵だと思います」
私も緊張していたもので、平凡な褒め言葉しか出てこなかったけれど、本当に綺麗な人だな、と思った。旦那さんや恋人の存在を想像したけれど、彼女の手の指には何もついていない。
「美帆ちゃん」
と美咲さんは言った。
「お腹空いてるでしょ? 私、いいお店知ってるの。今からそこでランチしない?」
彼女の提案に私は、あ、はい、と同意しながらも、ろくにお店も調べてこなかったことを後悔する。
気を遣わせてしまって、なんだか申し訳なく思いながら、彼女の後をついていった。
広場の駐車場に彼女は自分の車を停めていた。ベージュ色の四人乗りオフロード向け軽自動車で、車内にはかすかに新車の匂いが残っていた。
「本当は妹の美紅も来る予定だったんだけど」
美帆さんは国道を走らせながら、助手席に座る私に話しかける。その細い腕でハンドルを操作する姿は、なんだかとても大人びて見える。こういうのを見ると、私も自分の車が欲しくなる。
「今日急に仕事が入ったらしくて・・・。すごく残念そうにしてたわ」
そうなんですね、と相槌を打ちながら、もう一人の姉の姿をぼんやりと想像する。しかしその漠然としたイメージも、視線の先に浮かぶ五月の白い雲に溶け込んでいった。




