エピローグ 井上美穂③
彼女が車を停めたのは、海岸沿いの道路脇にひっそりと佇む小さなレストランの駐車場だった。白い壁にテラコッタ調の屋根が青い空によく映えている。写真を撮ってインスタに載せようかと考えたが、美咲さんがいる手前、諦めた。
美帆さんが木製のドアを開けると、小さなベルがチリンチリンと音を立てた。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきた店主らしき男は美帆さんの姿を見るなり、驚いたように目を見開いた。
「お久しぶりです。吉村さん」
うやうやしくお辞儀する美帆さんに、吉村さんと呼ばれた店主も嬉しそうに目を細めた。
四十代半ばくらいと思しきその店主は頭頂部はすっかり薄くなり髪の毛は風前の灯だったが、小奇麗に整えてられており、そのネクタイ姿も相まって清潔に見えた。
店内には私たち以外にも数組のお客さんがいたけれど、私たちは窓際の静かな席に案内された。窓からは海が見えて、小さな船が光る波間にたゆたっていた。
私たちは渡されたメニュー表を見ながら、時間をかけてオーダーを考えた。
「苦手なものとかある?」
と美帆さんが視線を上げて訊いた。私は魚介類があまり好きではなかったけど、特にありません、と答えた。
彼女は茄子とソーセージのトマトパスタを、私はバジルとベーコンのパスタを選択した。それから、美帆さんがおいしいと言うイカと玉ねぎのサラダを二人で分け合うことにした。
「美帆ちゃんって、今大学生なんだよね?」
料理を待つ間、美帆さんが訊いた。
「どう? 学生生活は楽しい?」
「どうですかねえ」
と私は答えた。
「なんか大学生って、もっと自由な感じだと思ってたんですけど」
「けど?」
「実際は課題も多いし、制服を着なくなっただけで、高校生のときと、あんま変わんないなあって感じです。それに私は実家暮らしなんで、一人暮らししてる友達とか見ると、ちょっと羨ましいですし」
愚痴っぽく言って、すぐにはっとなる。この人はあの家で本当は父と暮らしたかったのかもしれないのに、それを当たり前のように享受している自分がこんなことを言うなんて、美咲さんはどう思っただろう。一抹の不安を胸に彼女の顔を見る。しかし私の不安をよそに、美咲さんはクスっと笑った。
「私にもわかるわ~、その感覚」
と彼女は言った。
「私も美紅も学生時代は親元から通っていたから、一人暮らししている周囲の学生と比べて、自分が子どものような感じになるのよね」
その反応に少し拍子抜けしつつも、
「美咲さんは、大学生活楽しかったですか?」
私はそう訊いてみる。
「うん、楽しかったよ」
と彼女は明るく答えた。
「私は二十三歳になる年に大学生になったから、同級生もみんな年下で、青春って感じではなかったけど、大学行ってよかったなって思ってる」
意外な事実に少し驚く。二十三歳といえば、大半の学生は卒業して就職する年齢だ。その歳から大学に入るなんて、私にはとても考えられない。
私の疑問を察したように、美咲さんは自身の話をしてくれた。
高校を中退して、引きこもりになったことや、その後、飲食店で何年もアルバイトをしていたこと、そして高卒認定を受けて大学に行ったこと、卒業した今は、公立の小学校で教員として働いていること。
私からすれば、それはものすごい苦労話なわけで、このストーリーの中には、父と前の奥さんとの離婚も含まれているのだろうけれど、美咲さんは沈鬱とは無縁なトーンで、今に至るまでの過程を楽しそうに話した。
「まあ、いろいろとなりゆきね」
どんな経験をすれば、こんな風に笑えるのだろう。彼女はまだ二十代のはずだけど、その笑顔には年齢を越えた気品のようなものが漂っていた。
彼女の過去に想いを馳せていると、さっきの店主がサラダを運んできた。皿をテーブルに置くと、一緒に持ってきたペッパーミルをサラダの上でカリッカリッと数回回した。イカと野菜の上に黒胡椒がまばらに散る。
「おいしそう」
と美咲さんが目を輝かせると、
「イカは今朝獲れたばかりなんだ」
店主は自慢げに言った。
「少しだけ多めに盛っておいたから、たくさん食べてよ」
「ありがとう、吉村さん」
店主は私にも軽く会釈してテーブルから去って行く。
「あの人、私が昔アルバイトしてた店の店長だったんだけど、最近、独立してこのお店をオープンしたのよ」
店主の後姿を見つめながら、美咲さんが言った。
「それでこのお店に?」
私が言うと、彼女はクスっと笑った。
「それもあるけど、本当にこの店の料理はおいしいの」
言いながら、小皿にサラダを取り分け始める。
「あ、私がやりますよ」
そう言ったけれど、彼女は、ううん、大丈夫と私を制して綺麗に二人の小皿に盛った。私の分の皿は心なしか美咲さんのよりもイカが多く入っているような気がした。きっと彼女の気づかいなのだろう。
野菜の上で、吸盤のついたイカの足は今にも動き出しそうだった。正直に魚介類が苦手だと言えばよかったと後悔したが、
「いただきます」
合掌してから、箸でイカの足を口へ運んだ次の瞬間、
「おいしい・・・」
思わず言葉が漏れ出ていた。それはお世辞でも何でもなく、率直な私の感想だった。
「でしょう?」
美帆さんが嬉しそうに頬を緩めた。野菜も一緒に口に運ぶ。玉ねぎもしなびてなくて、シャキシャキとした食感とさっぱりとした味付けがさらに胃袋を刺激した。
サラダを綺麗に食べ終えたタイミングで、店主とは別のウエイターがパスタの皿を運んできた。
「ご注文の品はお揃いでしょうか?」
ウエイターの問いかけに私が小さく頷くと、ウエイターはお辞儀をして去っていった。
私と美咲さんは少しの間、黙って運ばれてきたパスタを食べた。フォークの使い方が変だと思われたらどうしよう、とか余計なことを考えたけれど、数秒後には料理の味に集中していた。
「お父さんとは、今でもときどき連絡を取り合っているのよ」
ほとんど食べ終えたところで、美咲さんが唐突に口を開いた。私に遠慮している感じはなく、ごくごく自然な口調だった。
「お父さん、あなたのことをよく話しているわよ」
「私のこと、ですか?」
私は驚いて訊き返す。美咲さんは屈託のない笑顔で言った。
「美帆ちゃん、高校生のとき、文芸コンクールで賞獲ったでしょ?」
「どうしてそれを?!」
一瞬で顔が熱くなった。
「だって、お父さんが話していたもの。あのときの喜びようったら、なかったなあ」
呑気に語る美咲さんを見ながら、父が私のことを誰かに自慢している姿は想像できなかった。
「ついこの間だって、美帆ちゃんが志望の大学に受かったんだって喜んでたわ」
なぜかわからないけれど、心の奥が少しだけ温かくなる。それと同時に、ずっと抱いてきた疑念が鎌首をもたげる。
「あの」
と私は言った。
「美咲さんはそういう私の話を聞いて、嫌な気持ちになったりしないんですか?」
「嫌な気持ち?」
と彼女は目を丸くする
「だって、美咲さんたちは私と違って、父と血の繋がった実の親子なわけですし、私に父親を取られたような気にはならないんですか?」
美咲さんは、そうねえ、と呟いて窓の外に視線を向けた。
「私はね」
そう静かに口を開く。
「数年前にあの人に再会するまで、五年間も会っていなかったの。いろんな思いもあったし、もう家族じゃないと思ってた。でも、再会してわかったの。離れて暮らしていても、お父さんはお父さんなりに、私や美紅のことをずっと大切に思ってくれてたんだって。もう私があの人と一緒に暮らすことはないけれど、そんなことは私にとっては些細なことだし、むしろ美帆ちゃんの話を聞いて、今の家族を大切にしていることに安心したの。だから美帆ちゃんが連絡をくれたとき、私、すごく嬉しかったんだ」」
こちらを向いた彼女の瞳ははっとなるほど美しく、宝石のように輝いていた。
「ずっとあなたに会いたかった」
胸の奥がぎゅっとなって、なぜか目頭が熱くなった。それを悟られないように、私も窓の外へと視線を向ける。水平線よりずっと向こう、五月の空はどこまでも遠く、そして青かった。
店主がやってきて、テーブルの上にバニラアイスが載ったお皿を二つ置いた。アイスの上にはミントの葉っぱが乗っかっていた。
「頼んでないですけど」
美咲さんが言うと、
「サービスだよ」と彼は言った。
「いいんですか? ありがとうございます」
美咲さんに彼は優しく微笑んだ。私はそれを見て、髪が薄くても意外とイケメンだなと思った。
「吉村さん」
と美咲さんが言って私を紹介した。
「この子、私の妹です」
妹と呼ばれたことに少し気恥ずかしさを覚えつつ、私は小さく頭を下げる。店主も軽く会釈したが、どこか不思議そうな顔をしていた。察したように美咲さんが口を開く。
「あ、美紅とは別の妹です」
「あれ、美咲って三人姉妹だったっけ?」
「三人姉妹になったんです」
美咲さんの言葉に店主は一瞬逡巡するようなそぶりを見せたが、すぐに、そうなんだ、と小さく笑った。
「そういえばこの前、モモが来たぞ」
と彼は言った。
「モモさんが?」
と美咲さん。
「ああ、なんか彼氏と一緒だったけど、わりとぽっちゃりしたフツーな男だったよ」
「へえ、なんか意外ですね。モモさん、背の高いお金持ちイケメンとかと付き合ってそうなイメージありましたもん」
「だよな~」
と言って店主が笑う。
「お前は? 結婚とかまだしないの?」
私はドキッとした。美咲さんは眉間にしわを寄せて、
「吉村さん、それ、セクハラですよ」
胡乱な目つきで言い返す。
「もう上司じゃないから、セクハラにはならんだろ」
「お客に言ってるんだから、余計に大問題でしょ」
美咲さんのため息が漏れる。
「私にはいいですけど、妹に言ったら殺しますからね」
「き、訊くわけないじゃないか」
と店主は慌てた様子で言った。
その様子がなんだか少しおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「そんなことばっかり言ってると、娘さんに嫌われますよ」
「ばーか、俺は妻と娘の前ではいつでもジェントルマンなんだよ」
「でしょうね」
美咲さんが意地悪な笑顔を見せると、二人は声を上げて笑った。
その様子を見ながら、美咲さんたちがこの店主の元で働いていた光景を想像し、少し羨ましく感じた。




