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FUTURES  作者: ナル
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高木孝介⑦

 予想通り、この日は客足も少なくて、手持ち無沙汰になる時間も多くあった。さっき拭いたばかりのテーブルをもう一度拭いてみたり、ドリンクの在庫を確認したり、長浜さんが、調理で出た生ハムの切れ端をくれたので、それをアルバイトのみんなでつまんだりした。


「こりゃまずいなあ」


 と吉村さんはガラガラのホールを見回しながら言ったけど、本当にそう思っている風にはとても見えなくて、


「ちょっと煙草吸ってくる」


 気だるげにそう言い残すと厨房の奥へと引っ込んでいった。


 時計の針が7時47分を指したところで、ようやくこの日四組目の客が入ってきた。


 三十代くらいの男女二人組で、男は腹が出た上半身に似合わない皮ジャンを羽織り、女はガリガリに痩せていて、丈の短いスカートを履き、首には派手なマフラーを巻いていた。二人はいらっしゃいませの声も無視してドカドカとホールに踏み込んでくると、壁際のソファー席にテーブルを挟んで深く腰を下ろした。


 あと十分ちょっとで休憩に入れるところだったのに。


 そう思いながら、注文を伺いに行く。客席の横に立つと、男はメニューを見ることもなく、


「ここ、灰皿ないの?」


 野太い声で聞いてきた。


「申し訳ありません。当店は禁煙となっております」


 俺が言うと、男はああ、そう、とどうでもよさそうに言って、乱雑にメニューブックを開いた。パラパラとページを行ったり来たりしたあとで、


「生ビールと、あとこれとこれ頂戴」


 そう言って、イカのフライとマルゲリータ風パイ包みを指さした。


 女は一緒にメニューを見るでもなく、足を組んでスマホの画面を黙って見続けていた。


「生ビールはおふたつでよろしいですか?」


 俺が聞くと、男は不機嫌そうに


「あたりめえだろ」


 眉をひそめてそう言った。


「かしこまりました」


 俺は形式的なお辞儀をして、注文用のスマホアプリにオーダーを入力する。

 

 立ち去ろうとしたとき、


「あと」


 と男が俺を呼び止めた。


「この席ちょっと寒いから、エアコンの温度上げてくんない?」


 俺はホールを軽く見渡してみる。この二人組のほかに、店内にはもう一人、仕事帰りとみられる中年男がホール中央のテーブルでおいしそうにビールを飲んでいた。


「申し訳ありません」


 と俺は頭を下げながら言った。


「他のお客様もいらっしゃいますので、


 室内の気温は二十五度で統一させていただいております」

 

 男は空虚な目で俺のまじまじと見つめた後、


「こいつが寒がっとるけ、温度上げてくれっていいよるんよ」


 女に視線を配りながら、鼻で笑うように言った。


 俺も女を見た。この季節にそんな恰好していたら、そりゃ寒くも感じるだろうよ。

 

 胸の内で呟きながら、もう一度小さく頭を下げる。


「重ね重ね申し訳ありませんが、ご了承くださいますようお願いいたします」


 その瞬間、男の手元にあった紙おしぼりが飛んできた。


 俺の胸に柔らかく当たると、パサッとフローリングの床に落ちる。


「馬鹿かおめえは」


 と男は語気を強めた。


「客が寒いっていいよるんやけ、温度を上げればいいだけのことやろうが! 頭わりいんか!」


 最後の言葉にカチンときたが、ぐっとこらえて再度、謝罪の言葉を述べる。


「もういい。こんな店出よう」


 男は女にそう言うと、大きな音を立ててメニューブックを閉じた。


「お客様、ご注文は・・・」


「うるせえ! 殺すぞ!」


 ソファー席から重そうな体を持ち上げるとそう言い残し、大股で出入り口から出て行った。女も後を追うように席を立ったが、店を出る瞬間、こちらを振り向いて小さく頭を下げた。


 二人が去ると、静寂が訪れた。店内にいるもう一人の客は何食わぬ顔で黙々と目の前の料理を食べていたが、時折、スマホを見るふりをして俺の方に短い視線を送っていた。


「大丈夫?」


 岩村さんが後ろから近づいてきて言った。一部始終を見ていたのだろう。


 俺は振り向いて彼の顔に焦点を合わせる。そのとき、どういうわけか言葉にならない怒りがこみ上げてきた。いや、それが怒りなのか何なのかも正直わからない。


 だけど今、俺が一番見たくないのは、さっきの客ではなく、この人の顔だった。


「大丈夫です」


 俺は視線を逸らしながら言った。


「休憩もらいますね」


 床に落ちた紙おしぼりを拾い、カウンター裏のゴミ箱に叩きつけるように投げ捨てると、急いで更衣室の中に入った。


 一つぽつんと置かれた丸椅子に腰かけると、蛍光灯の下で目を閉じて大きく息を吐いた。今思えば、これまであんな風に客に絡まれることはなかった気がする。面倒くさい客はいたけれど、大抵の客は大柄な俺よりも女の子や岩村さんにその歪んだ感情をぶつけていた。


 部活でのしごきや叱責にも慣れているはずなのに、あんなクズみたいな客に罵倒され、それを気にしている自分がいる。だけどそれは、単純に理不尽な叱責に対する反応ではなくて、自分の陳腐なプライドを守っていたものが、崩れていることを自覚せざるを得ないからだ。


 俺はドラフト候補に挙げられ始めたあたりから、野球を通じて、心のどこかで自分が特別な存在なんだと思っていた。そして、部長やさっきの客みたいな人間に従わざるを得ない「特別でない」人間を、自分とは無関係だとどこか斜に見ていた。


 そう、岩村さんだ。俺はそう思った。


 今まではこんなこと考えもしなかったのに、彼を通じて、自身の将来を見ようとしている自分がいる。そして、彼みたいにはなりたくないと、今更比較の対象にしている。


「情けねえ」


 ぽつりと漏らした誰もいない二畳ほどの空間は、確かに少し寒く感じた。


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