大野美咲④
LINEの着信音が鳴ったとき、私は来月に迫った高卒認定試験のために、自室の机で英語の長文問題に向き合っていた。
ストップウォッチを止めて、裏返したスマホに手を伸ばす。通知もオフにしておくべきだったと思ったが、後悔先に立たず。
それは吉村さんからだった。明日、急に大人数の予約が入って、料理長だけじゃ手が回らないから、出てほしいという内容だった。
私は、「了解です」と短く返信すると、椅子に座ったまま大きく伸びをした。
壁にかかったカレンダーに目をやる。今日は七月十八日・・・。待てよ? と思い時計を見ると、時計の針は深夜0時を過ぎていた。ということは、今日はもう十九日か。
私は大きくため息をつき、財布の中から、一枚の紙片を取り出した。それは角も擦れて丸くなり、印字もすっかり薄くなった名刺だった。
あれからもう五年が経ち、私は二十一になった。あのとき、どうしてここに書かれた番号に連絡をしたのか。今となっては不思議だけれど、なんとなくこれでよかったような気はしている。
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私は自家用車を持っていないから、いつも路線バスを利用して通勤している。
車内のお客さんの中には、差し込む日差しを気にしてブラインドを下ろす人も多いけれど、私は窓から外の景色をぼんやりと眺めるのが好きなので、よほど眩しいとき以外はブラインドを下げたりはしない。
街路樹の木洩れ日の下を、ワイシャツの袖を捲り上げて歩くサラリーマンや、日傘を差して歩く女性が視界の後方へと流れてゆく。この人たちは私にとっては風景の一部で何者でもないけれど、あの人たちにとっての私もきっと何者でもないのだろう、と思う。
繁華街のバス停で下車すると、むせるような湿気と共に、ビルの隙間に反響するセミの鳴き声が一斉に私の耳に襲い掛かる。
熱されたアスファルト舗装の路地は建物や電柱の影を短く映して、道行く人たちは照り返しに顔をしかめていた。
私も例に漏れず目を細めながら歩き慣れた路地を歩く。来年も再来年もそしてその次の年も、こうしてこの道を歩いていると思うと、なんとなく絶望のようなものを覚える。そんなことを考えるようになったのは、私が自分の状況を理解し始めた証拠だろうか。
「おはようございます」
裏口からいつものように店内に入る。厨房では料理長の長浜さんが相変わらず仕込みもせずに丸椅子に腰かけて、雑誌を読んでいたが、私が来たの確認すると、雑誌を閉じてよっこらせと立ち上がった。きっと私の到着が活動開始の合図とでも思っているのだろう。
ホールに入ると、店長の吉村さんと部長が客席で向かい合い何かを話し合っていた。ほとんど一方的に部長が喋り、吉村さんは単調な返事を繰り返している。あの部長が何か喋ると、大抵こちらにとっては悪いことが起こるというのが、従業員の暗黙の認識だ。
更衣室で着替えを済ませてホールに戻ると、部長の姿はなく、吉村さんもカウンターの奥でワイングラスを磨いていた。
彼は私に気づき、
「美咲、悪いな。急にシフト入ってもらって」と言った。
「別にいいですよ」と私は答えた。
そう、別にいいのだ。
「ところで吉村さん、さっき部長と何を話してたんですか?」
聞くと、彼は軽蔑するような歪んだ笑みを顔に浮かべた。もちろんその対象は私ではない。
「実はさ」
と彼は言った。
「うちは今ディナーをメインにやってるけど、売り上げを伸ばすためにランチも始めるって言うんだ」
「ランチ、ですか・・・?」
私には経営のことはよくわからないが、きっと吉村さんにとっては都合が悪いのだろう。
「今はなんとか利益も上がってるけど、それは夜だけで経費を抑えられてるっていう側面もあるからなんだ」
と彼は眉をひそめた。
「ここは繁華街だから、客は夜に集まってくる。昼間に店を開けても人なんて来やしない。費用がかさんで、今の売り上げの足を引っ張るだけだ」
「でも、昼間でも営業してる店はこの近くでもあるじゃないですか」
と私は素朴な疑問を口にするが、彼は小さく首を横に振った。
「たしかに、昼間営業しても儲かってる飲食店はある。でもそれは昼間でもこの繁華街に来る人のニーズに沿った本格的なサービスが提供できているからだ。決して夜のついでに開けているわけじゃない。それなのにあの部長ときたら、ランチのメニューはコストを抑えるためにカレーライスだけにするって言うんだ。コストの抑え所が間違ってんだろ」
「ふうん」
と私は適当に相槌を打つ。
「それにさ、そのために昼の人員を夜に回せだってさ。ほんとにもう・・・」
吉村さんはまだ何か言いたげだったけど、大きなため息と引き換えに飲み込み、小さく、やれやれ、と言った。
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彼の雇い主は大抵ろくでなしだ。私が彼の店で働き始めた当時も、その店のオーナーも控えめに言って人間のクズだった。
店の運営はすべて店長の吉村さんに丸投げして、いつも自家用ボートでどこかの海を航海している遊び人。六十は過ぎていたと思うが、いい大人が遊び惚けている姿はさすがに痛いと、若いアルバイト店員たちの間では噂になっていた。
時々、日に焼けた黒い頭頂部に照明の光を反射させながら、似合わないアロハシャツを着て現れたかと思うと、堂々とホール中央の客席に座り、店員を呼びつけて指示を出し始めたりするものだから、周りのお客さんもさすがに引いていた。
これは後から聞いた話だが、当時の吉村さんは健康保険にも入れてもらえてなかったらしい。そんなときに子どもが産まれ、さすがに見切りをつけた吉村さんは、店を辞めて別の店に就職したのだが、それが今のこのお店というわけだ。
彼が店を辞めるとき、当然ながら私も退店の意思をオーナーに伝えた。
時給のアップを条件に引き留められたけれど、その条件が守られるなんて微塵も思っていなかったし、事実、時給アップの約束を反故にされたアルバイトを何人も見てきたので、丁重にお断りして店を辞めた。元々、従業員はアルバイトも含めて十五人くらいだったけど、吉村さんが辞めると、まるでドミノ倒しのように一ケ月で七人が辞めた。
結局、カツオドリカフェは、それから半年も経たないうちに閉店に追い込まれた。きっとあのオーナーのことだから、その責任が自分にあるなんて微塵も感じてはいないのだろう。
ただ、現在の店に就職したはいいものの、新しい上司があの部長なのだから、吉村さんってつくづく上司に恵まれないな、と思う。というか、飲食業界って、こういうのが当たり前なんだろうな。




