大野美咲③
別に何かを期待していたわけではない。ただ、この奇妙なお客さんが店長をやるようなお店って、どんなところなんだろうとほんの少しだけ興味が湧いただけだ。
当時、彼がいた店はランチもやっていて、よく晴れた金曜日の十三時二十五分、百均で買ったキャップを目深に被り、なるべく目立たない地味な格好で、最初は客として訪れた。
お店は駅裏の商業施設の中にテナントとして入っており、ガラス張りの店内は外部の光をよく取り込んで、爽やかな明るさに満ちていた。
少し遅い昼食をとる会社員やベビーカーを並べて談笑する若い母親グループなど客層は割とライトだった。
私は隅っこの二人用のテーブルに案内された。テーブルの真横では天井まで届きそうな大きな観葉植物が、冷房の風に静かにその葉を揺らしていた。
目の前にラミネートされたメニュー表とカトラリーが入ったバスケットがきれいに並んでいた。私は近くの店員を呼び止めて、バジルソースのパスタを注文した。
料理を待っている間、ぼんやりと店内の様子を観察したが、せわしなく動き回るスタッフの中に、彼の姿は見当たらない。店長って、やっぱどこか別室で事務仕事とかしているのだろうか。
しばらくして、店員が料理を運んできた。まだ若い男のアルバイト店員。彼はあまり慣れていない様子で、サービスのパンがいくつか入ったバスケットとパスタが盛られたお皿を慎重に私の目の前に置く。伝票を挟んだバインダーをゆっくりと裏にしてテーブルの隅に添えると、「ごゆっくりどうぞ」と言って去って行った。
フォークにパスタを絡めて口に運んだ。濃厚なバジルの香りとこんがり焼かれたベーコンの風味が口の中に広がって、そこまで空腹だったわけでもないのに、次のひと口へと手が止まらなくなった。こんなにおいしいパスタを滅多に食べる機会もない私は、当初の目的も忘れて、純粋に食事を楽しんでいた。
ほとんど食べ終えたとき、一人の店員が私の席に近づいてきた。気配だけを感じながら、お皿に残ったソースをパンで拭っていると、テーブルの上に何かが静かに置かれる音がした。
なんだろう、と思い、顔を上げてはっとなる。
そこに立っていたのは、私を指名しておきながら、何もせずに名刺だけを渡して去っていったあの男だった。
少々驚いた。彼の存在にではない(そんなことは最初からわかっている)。そこにあったのが、ジーンズにワイシャツ姿の死んだ目をした中年おやじではなく、のりの効いたワイシャツにネクタイを締め、ベストを着たジェントルマンの姿だったからだ。
その顔にはあのときとは別人のような上品で控えめな笑みが浮かんでいた。
「これ、サービス」
彼はそう言って、テーブルの上に視線をやった。
見るとそこには白くて小さな陶器の容器が置かれていて、納まっているのは軽く焦げ目がついた表面にうっすらと白糖がふりかけられたプリンのようなデザートだった。
それがブリュレというヨーロッパ発祥の食べ物だということすら知らなかった当時の私は、
「結構です」
困惑しながらもそう答えた。でも彼は気にしない様子で、
「パスタ、どうだった?」
笑顔でそう聞いてくる。人の話をあまり聞かないタイプなんだろうな、と思った。
「パスタは・・・おいしかったです・・・」
私が控えめに言うと、彼は嬉しそうに目を細めた。そして、
「これもおいしいよ」
と空いたパスタの皿を持ち、ブリュレの容器を私の目の前に移動させると、踵を返して去って行った。
どうしてこの男は私の話は聞かずに、言いたいことだけ言って去って行くのだろう。
怨念を込めた視線を彼の背中に送ったが、テーブルの間をすり抜けながら、飄々とした様子で遠ざかっていく。
私は諦めて、テーブルの上のブリュレに視線を落とした。あまり気は進まなかったけれど、せっかくサービスしてくれたのに、そのまま残してしますのも申し訳ないような気がした。
ソーサーに添えられた銀色のスプーンを手に取って、ひと口分すくってみる。持ち上げられた鼈甲色のカラメルソースが照明の光を反射して、きらきらと輝いていた。
私は落ちないように慎重に、スプーンを口へと運んだ。パリッと焦げた表面の感触とやわらかいプディング生地が絶妙に絡み合う。それは鬱積したもやもやを溶かし流すような甘さだった。




