大野美咲⑥
八月に入ると、街に降り注ぐ日差しは一層強くなり、熱中症の搬送患者数が毎日ニュースで伝えられていた。
この日の予想最高気温も三十五度を超えていた。
こんな日にバイト以外で外に出るなんてまっぴらごめんだが、高卒認定試験が間近に迫った私は、なるべく集中できる場所を求めて、市立図書館に来ていた。
高卒認定試験の合格には、最低でも八科目の合格が必要になる。私は一昨年、昨年と、すこしずつ受け、今年、最後に残された英語の試験をクリアすれば、晴れて高卒認定資格を取れるところまできていた。
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私にこの試験を受けることを勧めてくれたのは母だった。たまたま役所に用事があって行った際、入口のラックに置かれていたパンフレットを見て持って帰ってきたのだ。
その当時、私は既にカツオドリカフェで働いていたが、このままずっとアルバイトをしていても、どこにも辿り着かないことはわかっていた。中学生だった妹はともかく、自立できない大きな娘を一人で養う母に対する負い目も感じていた私は、少しでも母を安心させる目的もあり、試験を受けることにした。
とはいえ、である。高校でもほとんど何も身に付けず中退した私がいきなり試験を受けても受かるはずもない。何から始めていいかわからない私は、とりあえず近所の本屋で参考書を買うところから始めた。
季節は冬で、参考書のコーナーでは、制服を着た同年代の女の子が数人、書籍が並ぶ棚の前で分厚い問題集を手に取っていた。
ジーンズに古いウインドブレーカー姿の私は一人浮いていて、書籍を手に取る彼女たちの短い視線を感じたけれど、気にしない風を装って、目の前にあった本に手をかける。
そのとき。
「大野さん?」
突然名前を呼ばれ、私はその手を引っ込めた。振り向くと、首元にマフラーを巻いて制服の上からダッフルコートを羽織った高校の元クラスメートの姿があった。
「久しぶり」
屈託のない笑顔で彼女は言った。
「元気にしてる?」
「あ、うん。まあ」
と私は適当に挨拶する。
在学当時もこの子とあまり関わったことがない私は、話すこともないので正直気まずかったのだが、不意に彼女の視線が私の目の前にある棚に向いた。
「大野さんも大学行くんだ?」
と彼女は言った。
「え?」
私は彼女の視線の先を追う。当時の私は知らなかったのだが、私が手に取ろうとしていたのは難関大学向けの問題集で、私みたいな人間が手をつけられるような代物じゃなかった。
「すごいね、大野さん」
そう言った彼女の言葉には、どこか私を憐れむような響きがあった。
「お互い頑張ろうね」
そう言い残し、去って行く彼女の背中を見つめながら、自業自得とはいえ、そのときばかりは自分が置かれた状況がなんだか少しだけ惨めに思えた。
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何かの目標があるわけではなかったけれど、少しずつ勉強を進めていくうちに、社会のしくみとか、科学のことや歴史について、いろいろなことがわかってくる。新しい知識を得るのは苦ではなかったし、楽しいとすら感じる自分がいた。
高卒認定試験は一年のうち、八月と十一月の二回ある。一度合格した科目は、再び受け直す必要はないため、一発で全ての科目で合格しようなどとは考えず、まずは国語、そして数学、というふうに、一つ一つ科目を潰していく作戦をとった。
家族もそんな私を応援してくれた。時々わからない問題にぶつかったりすると、現役高校生の妹が嫌な顔一つせずに教えてくれたし、母は自分が勧めたことで、私が負担に感じないよう、「マイペースでいいからね」といつも優しい言葉をかけてくれた。
そんな生活の中で気づいたことがある。陳腐な表現だけれども、ちょっとずつでも何かを積み重ねていくと、次の展望が見えてくるということだ。
勉強を始めた当時、私にあるのはアルバイトで身に付いた多少の接客スキルと調理の腕だけだった。いや、スキルや腕なんて呼べる代物でもない。私は誰でもできるようにマニュアル化された作業をただこなしていただけなのだから。
しかし、一年目、二年目と試験を受けて、最終合格までの残り科目数が少なくなってくると、心境にも変化が訪れた。
高卒認定に受かったからといって、それが直接何かに結びつくわけではない。母に勧められて始めた勉強だけれど、最終合格が見えてきた今、その先のことを考えないわけにはいかなかった。
大学に行きたい。
気づけば、漠然とそんなことを思うようになっていた。
同じ店で働くアルバイトの学生たちを見ていても、彼ら彼女らは、当然、この先の将来への希望を持っていて、この店は社会勉強やお小遣い稼ぎの場としか捉えてはいない。もちろん、そんな人間と比べて、自分が日本という学歴社会の底辺にいることは十分すぎるほど理解していた。
大学に行くためには、高卒認定とは比べものにならないレベルの試験を受けなきゃいけないし、仮に合格できたとしても、学費はバカにならない。
無気力に高校を中退した自分には分不相応な大望なのだろうか。
私はかすかに抱いた願望の火種を誰にも明かせないまま、今日も最終合格に向けて真夏の図書館で机に向かっていた。
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静かな館内は冷房がよく効いていて、ここに来るまでにかいた汗もすっかり引いていた。
どこからか聞こえてくる紙のページを繰る音が耳に心地良かった。
私は机に英文法の問題集を広げ、時間を計りながら解いてみた。この科目をクリアすれば、最終合格なのだ。
この問題集はページの角が擦り切れて丸くなるほど何度も繰り返し解いたから、ほとんど問題も覚えていたけど、いざ試験が近くなると、何度やっても不安になる。
受かったところで何になる?
どうせどこにも行けやしない。
自分の立場を考えろ。
シャーペンを動かしながら、脳裏ではネガティブな言葉があぶくのように浮かんでは消える。
途中まで順調に解けていたのに、次第に手の動きが鈍って来る。
勉強を始めた頃は、こんなことを考えたりしなかったのに。
私は邪念を振り払うためか、無意識の内に歯を食いしばっていた。けれど、目の前に並ぶ英文が少しずつ滲んで読めなくなる。
まだ、半分も解き終わらないうちに、私は手を止めた。
もう、いやだ。
机の上はそのままで、そっと席を立った。ハンカチだけを握り締めて、足早にトイレに逃げ込んだ。
幸い、近くには誰もいなかった。
鏡の前に立ち、目元が少し赤くなった自分の顔を見つめる。
これが悔しさなのか、惨めさなのか、それとも違う、別の感情なのか、勉強したくないわけでも、別に何が辛いわけでもないはずなのに、どうしてこんな気持ちになるのか、自分でもわからなかった。
けれど今、自分がそれを理解する時間もないことだけは理解できた。結果を出さなければ、この涙にもきっと意味なんてないのだ。
自分ではそうは思わないけど、吉村さんが結構かわいいと言った自分の顔をまっすぐに見つめながら、私は何度か深呼吸をした。




