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 ドア側のカーペットが、濃いシミを作る。

トポトポと、香油が落ちていく。


決行は夕方にした。

昼間は人が多いかもしれないから。夕方なら、仕事が終わり帰る人が増えるだろうし、夕飯の準備で残った人達も忙しい時間だと思うから。

お腹は空いてきたけれど、何が入っているかわからない夕飯も食べたくないし。


空はオレンジから、薄いグレーに変わりつつある。

きっと今頃皆、心配して、大騒ぎになっているだろう。

早く帰らなくちゃ。そう思う度、手に力が入る。


心臓がバクバクしているけれど、それはアドレナリンの効果だと思いたい。

下手をしたら自分も逃げられなくてここで死ぬかもしれない。

死の恐怖をこれ程まで近くで感じたことはなかった。


窓は、火をつけてから開けることにした。

火傷するから、とは言われているけれど、実際どの程度の火傷か、それ以外にも開けたら音が出るのかもわからない。

わからないからこそ、下手に触れなかった。

チャンスは一度しかないのだから。


金の腕輪がチラリと視界に入る。

忌々しいけれど、こちらはやっぱり取れなかった。

魔力が使えないなら、多少の火傷は我慢するしかない。


海側の窓の下は覗いた感じは狭い通路があるようだった。

その通路の向こうがほぼ海。

海に落ちても、地面に落ちても怪我は確実だろう。

死なない事だけを祈るしかない。


香油の量はボトル一本分。

それから、アロマオイルの小さな瓶が3本。

柑橘系の匂いもあった。柑橘は燃えやすいとどこかで聞いた気がする。


油は出入り口のドア付近のみ撒いた。

これで、外からは入れない。でも中の私は、少しだけでも時間が稼げる筈だ。

その間に、火傷覚悟で鍵を開けられるはず。


できれば、椅子で窓を叩き割りたい。

でも大まかなガラスは窓の外に落ちるし、そうなると飛び降りて地面に落ちた時に悲惨かもしれない。それで余計に怪我が酷くなって結局捕まったら意味がないし。


そうなると、結局火傷覚悟で鍵を開ける方が被害は少ないし、逃げる確率も高くなる気がする。

痛いの、嫌だけど。

背に腹は代えられない。


手のかわりに何かで鍵を開けることも考えたけれど、火の手の周りは意外と早いかもしれないから、時間のかかる選択肢は止めた。

大丈夫、手は使えなくなるかもしれないけど、足がある。立って歩ければ、どこにだって行ける。


怖くて、マッチ箱に伸ばす手が震える。

本当は止めたいし、痛い思いはしたくない。死の恐怖だって、味わいたくない。


でも、唯々諾々と、クズの言いなりになるのは絶対に嫌だ。


自分を落ち着けるように、深く深呼吸する。

大丈夫、できる。

私はやれる。


目標は海。

地に足がつかないから、好きじゃないけど。

でも地面に落ちて骨折して動けないじゃ困る。


海なら、骨折まではしない、と思う。

見つけるまで時間もかかるだろうし、もしかしたら海まで探しには来ない可能性もある。

目標は、意識を失わず、岸辺まで泳ぐ。


それが実際可能なのかは、やったことがないからわからない。

でも落ち着いてやれば、きっとできる。そう信じるしかない。


制服は邪魔になるから脱いだ。

私が今身につけているのは、ショーツ、ブラ、タンクトップのみだ。そして、口にはハンカチの簡易マスク。

変態そのものの格好だけれど、生死の境で格好なんて気にしてられない。

見つかった時に嫌だけど、死ぬよりマシ。


ふー、と息を吐いて、私はマッチを取り出す。

チリっという音と共に小さな火が灯る。

この小さな火が、私の命を脅かす。


震える指先に力を込めて、私はドアに向かってマッチを投げた。

火は瞬きする間に燃え上がった。


熱い。

でもビビってる場合ではない。

急いで窓に手をかける。


「………った!」


ビリビリと衝撃が駆け抜ける。

指が動かなくなる前に、早く。

ジリジリと焼け付く匂いと音、手から出る煙で、目が霞む。

涙目になりながら、鍵と格闘すること数分。


手は痺れと火傷で大分動かなくなってきた。

痛い。

もう嫌だと、泣き言が出そうになる。

でも背後からは火が迫ってくる。


自分でやっておいてなんだけど、油、撒きすぎたかも。


火は恐らく、もう部屋の外側にも回っているだろう。下の階なのか、同じ階なのか、人の騒ぐ声がする。

その内、ここにも誰か来るかもしれない。

焦りは手の動きを鈍らせる。


それでも必死に痛みと闘って、漸く鍵が開いた。


「……よし!」


窓枠に足をかける。

下を覗き込んで、くらくらした。

高い。ここから飛ぶの、普通に怖い。


思わず足が竦んでしまう。

飛び降りるつもりはあるのに、足は言う事を聞かない。

恐怖に打ち勝つことができずに、窓枠に足をかけた状態で止まってしまう。


ごくりと、唾を飲む音が響いた。

口の中はカラカラなのに、音が鳴ったことが面白くて、少しだけ身体が動く。

前のめりになって、恐る恐る立ち上がる。


飛べ。


そう脳内で命じるのに、身体は拒否している。


『日乃』


どこか遠くで、名前を呼ばれた気がした。

私の偽物の婚約者。

私の推し。

私の、好きな人。


その声に押されて、イケる、と自然に思えた。

その瞬間、身体は窓枠からジャンプした。


そして、私が次に気づいた時は、海に身体を打ち付けて、余りの痛さに意識が浮上した感覚だった。


何処もかしこも痛い。

火傷した手は痺れてるし、全身は鈍痛だし、海は冷たい。

鼻にも耳にも水は入るし、服は張り付いて重い。


最悪過ぎるくらいに最悪だけど、目標の意識を失わない、は達成できた。

後は岸まで泳ぐだけだ。


でも余りの痛さに腕を上げる力も、水面を蹴る力も出そうにない。

仕方なく、安定感のない海で、沈まないようにするしかない。

でも、力を抜こうと思っても緊張と不安と恐怖で、全く上手くいかない。


地に足がつかないのは嫌いだし、怖いから。

人間は海に浮く生き物、と自分に言い聞かせても、怖いものは怖い。

自然とバシャバシャと溺れるようになる。


あ、ヤバい。これは死ぬ。

死因は自分の放火による飛び降りからの溺死。

自殺になっちゃうなー…と冷静な自分がいる。


海だから、死体、見つけてもらえないかも。

いや、見つけられても、下着姿だからちょっと嫌だけど。


そんな冷静な自分とは裏腹に身体は沈まないように、空気を求めてバシャバシャ動く。

次第に口まで海水が入ってきた。

もう、ヤバい。

私、死ぬつもりじゃないのに。


その瞬間、腕についていた腕輪がないことに気付いた。

打ち付けた衝撃で割れたのかもしれない。


魔法!


ありったけの魔力を水面に叩きつける。

その瞬間、海は、氷になった。


地、というか、氷に、足がつく。

固い地面。それだけで、さっきまでのパニックは嘘のように引いていった。

自分の身体を抱きめして、深く深呼吸する。


大丈夫、生きてる。

魔力も、魔法もある。

痛いけど、手も足も動く。

私、帰れる。


そう思った瞬間に、涙が零れた。


ボロボロ泣きながら、震える足に力を入れて、一歩歩き出す。

岸まで、数メートル。

その距離が、こんなに長い。

立ち止まったら二度と歩けない気がして、必死に足を動かす。


痛みだけが、意識を保つ楔のようだった。

ペタペタと歩き続け、漸く岸が近くなってきた頃。

岸辺に人々が集まっているのがわかった。


ハロンド家に雇われた人なのか、私を助けに来た人なのか、それとも火事を見に来た野次馬か。誰かは全くわからない。

でも岸辺の人々は私に気付いたらしい。

警戒して立ち止まる私に手を振っている。


呼んでいるようだった。

行って大丈夫なのかわからず、戸惑っていると、その内の一人が燈哉さんの名前を呼んだ。

呼び捨てにしていたから、知り合いなんだろう。

それなら多分、大丈夫。


そう思って一歩踏み出すと、ふいに風が巻き起こる。


この風と魔力には覚えがある。

風はふわりと私を包んで持ち上げる。

地に足がつかないのは怖いのに。

前にも言ったのに。


でも私を包んだ風はそんなの知らないとでも言いたげに、私をふわふわと飛ばしていく。

多分怖くないように、痛みが酷くならないように、最大限ゆっくりと丁寧に運んでくれているのだと思う。

疲れ果てて、へたり込んだら動けなかったから、されるがまま風に運ばれる。


そうして、私は漸く燈哉さんの元に辿り着いた。


「…おかえり」


私の姿を見て、上着を着せながら、燈哉さんはふー、と息を吐き出す。

それは安堵のため息だった。


燈哉さんは上着のボタンを上までしっかり閉めて、私をお姫様抱っこで抱えた。

地面は恋しかったけれど、もう動けなくて、そのまま燈哉さんの胸に頭を預ける。


とくとくと、心音が聞こえる。

人肌が暖かくて、安心する。


「寝てていいぞ」


低く落ち着いた声音は、気遣いに満ちている。

ここにはもう、生死の恐怖も、熱さも寒さもない。


私は燈哉さんに謝らなきゃと思ったけれど、あっと言う間に身体から力が抜けていく。

気持ちよくうとうとして、私は安心して目を閉じた。



ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


本作はすでに**【全話執筆完結済み】**です! 明日からも気ままに更新していきますので、安心してお付き合いください。 もし少しでも「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、 画面下にある**【★】(星)**や**【作品フォロー】**を押して応援していただけると、作者のモチベーションが爆上がりします!

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