12
ドア側のカーペットが、濃いシミを作る。
トポトポと、香油が落ちていく。
決行は夕方にした。
昼間は人が多いかもしれないから。夕方なら、仕事が終わり帰る人が増えるだろうし、夕飯の準備で残った人達も忙しい時間だと思うから。
お腹は空いてきたけれど、何が入っているかわからない夕飯も食べたくないし。
空はオレンジから、薄いグレーに変わりつつある。
きっと今頃皆、心配して、大騒ぎになっているだろう。
早く帰らなくちゃ。そう思う度、手に力が入る。
心臓がバクバクしているけれど、それはアドレナリンの効果だと思いたい。
下手をしたら自分も逃げられなくてここで死ぬかもしれない。
死の恐怖をこれ程まで近くで感じたことはなかった。
窓は、火をつけてから開けることにした。
火傷するから、とは言われているけれど、実際どの程度の火傷か、それ以外にも開けたら音が出るのかもわからない。
わからないからこそ、下手に触れなかった。
チャンスは一度しかないのだから。
金の腕輪がチラリと視界に入る。
忌々しいけれど、こちらはやっぱり取れなかった。
魔力が使えないなら、多少の火傷は我慢するしかない。
海側の窓の下は覗いた感じは狭い通路があるようだった。
その通路の向こうがほぼ海。
海に落ちても、地面に落ちても怪我は確実だろう。
死なない事だけを祈るしかない。
香油の量はボトル一本分。
それから、アロマオイルの小さな瓶が3本。
柑橘系の匂いもあった。柑橘は燃えやすいとどこかで聞いた気がする。
油は出入り口のドア付近のみ撒いた。
これで、外からは入れない。でも中の私は、少しだけでも時間が稼げる筈だ。
その間に、火傷覚悟で鍵を開けられるはず。
できれば、椅子で窓を叩き割りたい。
でも大まかなガラスは窓の外に落ちるし、そうなると飛び降りて地面に落ちた時に悲惨かもしれない。それで余計に怪我が酷くなって結局捕まったら意味がないし。
そうなると、結局火傷覚悟で鍵を開ける方が被害は少ないし、逃げる確率も高くなる気がする。
痛いの、嫌だけど。
背に腹は代えられない。
手のかわりに何かで鍵を開けることも考えたけれど、火の手の周りは意外と早いかもしれないから、時間のかかる選択肢は止めた。
大丈夫、手は使えなくなるかもしれないけど、足がある。立って歩ければ、どこにだって行ける。
怖くて、マッチ箱に伸ばす手が震える。
本当は止めたいし、痛い思いはしたくない。死の恐怖だって、味わいたくない。
でも、唯々諾々と、クズの言いなりになるのは絶対に嫌だ。
自分を落ち着けるように、深く深呼吸する。
大丈夫、できる。
私はやれる。
目標は海。
地に足がつかないから、好きじゃないけど。
でも地面に落ちて骨折して動けないじゃ困る。
海なら、骨折まではしない、と思う。
見つけるまで時間もかかるだろうし、もしかしたら海まで探しには来ない可能性もある。
目標は、意識を失わず、岸辺まで泳ぐ。
それが実際可能なのかは、やったことがないからわからない。
でも落ち着いてやれば、きっとできる。そう信じるしかない。
制服は邪魔になるから脱いだ。
私が今身につけているのは、ショーツ、ブラ、タンクトップのみだ。そして、口にはハンカチの簡易マスク。
変態そのものの格好だけれど、生死の境で格好なんて気にしてられない。
見つかった時に嫌だけど、死ぬよりマシ。
ふー、と息を吐いて、私はマッチを取り出す。
チリっという音と共に小さな火が灯る。
この小さな火が、私の命を脅かす。
震える指先に力を込めて、私はドアに向かってマッチを投げた。
火は瞬きする間に燃え上がった。
熱い。
でもビビってる場合ではない。
急いで窓に手をかける。
「………った!」
ビリビリと衝撃が駆け抜ける。
指が動かなくなる前に、早く。
ジリジリと焼け付く匂いと音、手から出る煙で、目が霞む。
涙目になりながら、鍵と格闘すること数分。
手は痺れと火傷で大分動かなくなってきた。
痛い。
もう嫌だと、泣き言が出そうになる。
でも背後からは火が迫ってくる。
自分でやっておいてなんだけど、油、撒きすぎたかも。
火は恐らく、もう部屋の外側にも回っているだろう。下の階なのか、同じ階なのか、人の騒ぐ声がする。
その内、ここにも誰か来るかもしれない。
焦りは手の動きを鈍らせる。
それでも必死に痛みと闘って、漸く鍵が開いた。
「……よし!」
窓枠に足をかける。
下を覗き込んで、くらくらした。
高い。ここから飛ぶの、普通に怖い。
思わず足が竦んでしまう。
飛び降りるつもりはあるのに、足は言う事を聞かない。
恐怖に打ち勝つことができずに、窓枠に足をかけた状態で止まってしまう。
ごくりと、唾を飲む音が響いた。
口の中はカラカラなのに、音が鳴ったことが面白くて、少しだけ身体が動く。
前のめりになって、恐る恐る立ち上がる。
飛べ。
そう脳内で命じるのに、身体は拒否している。
『日乃』
どこか遠くで、名前を呼ばれた気がした。
私の偽物の婚約者。
私の推し。
私の、好きな人。
その声に押されて、イケる、と自然に思えた。
その瞬間、身体は窓枠からジャンプした。
そして、私が次に気づいた時は、海に身体を打ち付けて、余りの痛さに意識が浮上した感覚だった。
何処もかしこも痛い。
火傷した手は痺れてるし、全身は鈍痛だし、海は冷たい。
鼻にも耳にも水は入るし、服は張り付いて重い。
最悪過ぎるくらいに最悪だけど、目標の意識を失わない、は達成できた。
後は岸まで泳ぐだけだ。
でも余りの痛さに腕を上げる力も、水面を蹴る力も出そうにない。
仕方なく、安定感のない海で、沈まないようにするしかない。
でも、力を抜こうと思っても緊張と不安と恐怖で、全く上手くいかない。
地に足がつかないのは嫌いだし、怖いから。
人間は海に浮く生き物、と自分に言い聞かせても、怖いものは怖い。
自然とバシャバシャと溺れるようになる。
あ、ヤバい。これは死ぬ。
死因は自分の放火による飛び降りからの溺死。
自殺になっちゃうなー…と冷静な自分がいる。
海だから、死体、見つけてもらえないかも。
いや、見つけられても、下着姿だからちょっと嫌だけど。
そんな冷静な自分とは裏腹に身体は沈まないように、空気を求めてバシャバシャ動く。
次第に口まで海水が入ってきた。
もう、ヤバい。
私、死ぬつもりじゃないのに。
その瞬間、腕についていた腕輪がないことに気付いた。
打ち付けた衝撃で割れたのかもしれない。
魔法!
ありったけの魔力を水面に叩きつける。
その瞬間、海は、氷になった。
地、というか、氷に、足がつく。
固い地面。それだけで、さっきまでのパニックは嘘のように引いていった。
自分の身体を抱きめして、深く深呼吸する。
大丈夫、生きてる。
魔力も、魔法もある。
痛いけど、手も足も動く。
私、帰れる。
そう思った瞬間に、涙が零れた。
ボロボロ泣きながら、震える足に力を入れて、一歩歩き出す。
岸まで、数メートル。
その距離が、こんなに長い。
立ち止まったら二度と歩けない気がして、必死に足を動かす。
痛みだけが、意識を保つ楔のようだった。
ペタペタと歩き続け、漸く岸が近くなってきた頃。
岸辺に人々が集まっているのがわかった。
ハロンド家に雇われた人なのか、私を助けに来た人なのか、それとも火事を見に来た野次馬か。誰かは全くわからない。
でも岸辺の人々は私に気付いたらしい。
警戒して立ち止まる私に手を振っている。
呼んでいるようだった。
行って大丈夫なのかわからず、戸惑っていると、その内の一人が燈哉さんの名前を呼んだ。
呼び捨てにしていたから、知り合いなんだろう。
それなら多分、大丈夫。
そう思って一歩踏み出すと、ふいに風が巻き起こる。
この風と魔力には覚えがある。
風はふわりと私を包んで持ち上げる。
地に足がつかないのは怖いのに。
前にも言ったのに。
でも私を包んだ風はそんなの知らないとでも言いたげに、私をふわふわと飛ばしていく。
多分怖くないように、痛みが酷くならないように、最大限ゆっくりと丁寧に運んでくれているのだと思う。
疲れ果てて、へたり込んだら動けなかったから、されるがまま風に運ばれる。
そうして、私は漸く燈哉さんの元に辿り着いた。
「…おかえり」
私の姿を見て、上着を着せながら、燈哉さんはふー、と息を吐き出す。
それは安堵のため息だった。
燈哉さんは上着のボタンを上までしっかり閉めて、私をお姫様抱っこで抱えた。
地面は恋しかったけれど、もう動けなくて、そのまま燈哉さんの胸に頭を預ける。
とくとくと、心音が聞こえる。
人肌が暖かくて、安心する。
「寝てていいぞ」
低く落ち着いた声音は、気遣いに満ちている。
ここにはもう、生死の恐怖も、熱さも寒さもない。
私は燈哉さんに謝らなきゃと思ったけれど、あっと言う間に身体から力が抜けていく。
気持ちよくうとうとして、私は安心して目を閉じた。
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