第89話:帳所、開きます
王都からの布告が届いたのは、五月の初めだった。天秤の封蝋。財務院の紙。
『新徴税法の実務につき、その教習を行う場を、王国の内に置く。
第一の場を、グラウフェルト辺境伯領の帳所とする。
教習を修めたる者は、算定の立ち会いの助手として、検分使これを用いることを得。
教習に要する費えは、回し費えの算定書に載せ、国庫より支弁す』
わたしは、その四行目を、三度、読んだ。
(――回し費えの算定書に、載せる)
去年の秋、わたしが一晩で作った、あの五つの欄の紙。あれが、いま、国の布告の中に、当たり前の顔をして、入っている。
*
同じ日に、短い書状が、もう一通、来た。差出人は、財務院検分官オイゲン。
『拝復。
帳所の件、財務院にて滞りなく通りました。反対は三名、賛成は九名でございます。
反対の三名は、いずれも「地方に教習の場を置けば、書式が乱れる」と申しました。
私は、こう申し上げました。――書式は、書かせぬから乱れるのです、と。
運ぶ数字が、正しくなりました。
次は、運ぶ者を、増やす番かと存じます。
オイゲン』
わたしは、その紙を、しばらく見ていた。
(――あの方が)
一昨年、この館の広間に立って、「私は、決められた数字を運ぶだけです」と言った人だ。
あの頃、この人の顔には、温度がなかった。いまの紙にも、温度はない。けれど、九対三の内訳が書いてある。
(数を、教えてくださっているのね)
*
わたしは、その書状を、帳所の板の隅に貼った。
昼の講義が始まる前に、ゲオルクがそれを読んで、しばらく、動かなかった。
「――財務官様。この、九対三というのは」
「ええ」
「わざわざ、内訳を書いてこられましたな」
「――お気づきに?」
「二十二年、お役所の紙を書いてまいりましたので」
その人は、白いものの混じった頭を掻いた。
「お役所の紙で、内訳を書く必要は、ございません。通ったなら、通ったと書けばよい。……内訳を書くのは、次に押し返される日を、考えている者だけでございます」
わたしは、その言葉を、しばらく噛んでいた。反対の三名は、まだ、財務院にいる。
いま、この帳所が「乱れる」証しを一つでも出せば、あの三名の声が、次は五名になる。
「――キーファーさん」
「はい」
「開きの日から、生徒の名と、修めた日と、その者が村で何を書いたかを、ぜんぶ、帳につけましょう」
「証しに、でございますか」
「――ええ」
わたしは、板の隅の書状を、指した。
「あの方が、次に押し返される日のために」
*
帳所の開きは、五月の十日と決まった。一年前、あの東の納屋の屋根が半分落ちていたことを、思い出す。
いまは、席が百ある。窓が四つ。板が二枚。そして、教壇に立つ者が、五人。
――ゲオルク・キーファー。書式と、式の組み立て。
――ヤン。算定の実務と、よくある間違い。
――リーゼ。比べの欄と、読み上げの作法。
――マルタ。字の読めない人への手ほどき。
――そして、ニコ。
*
その日の朝、講堂は、満席だった。百の席が、埋まっている。
いちばん後ろの壁際に、ヴォルフ様が立っていた。席は生徒のものだからと言って、座らなかった。
前から三列目まで、若い顔が並んでいる。アイヒベルクの女伯が送ってきた、あの領の子が、七人。
ホルツ、ブラウ、シュタル、ザントレヒト、ミュール。西の三領。ヴェントからも、二人。
そして、いちばん前の席に、若い検分使が座っていた。
テオドール。
冬から、この帳所で、算定の立ち会いを教えている。
三日目に、生徒の一人に「先生も、間違えたことがありますか」と聞かれて、その人は、まっすぐ答えたそうだ。
「――ございます。十四枚」
*
「――財務官殿」
講堂の後ろで、ハーゲン殿が、わたしの隣に立った。いつもの検分使の礼服。いつもの、記録調の声。
「一年前、私は、あなたに謝りに参りました」
「――白紙の署名の件ですね」
「あのとき、私は、監督不行き届きと申しました。……あれは、半分、嘘でございます」
わたしは、その横顔を見た。
「私は、あの若い者を、庇うつもりでおりました。庇って、辞めさせて、それで終わりにするつもりでした」
「――ええ」
「あなたは、辞めさせませんでした。教えろ、と仰せになった。……あれから、あの者は、十四の村を、一つも落とさずに回っております」
ハーゲン殿は、そこで、講堂を見渡した。百の席。五人の教え手。
「財務官殿」
「はい」
「あなたは、法をお作りになった」
「――ええ」
「そして、その法を回す人を、お作りになった」
その人は、初めて、はっきりと笑った。
「――三十年、財務寮の誰も、そちらのほうは、作りませんでした」
*
式は、短かった。
わたしは、板の前に立って、三つだけ、話した。一つ。この帳所は、授業料を取りません。
二つ。その代わり、学んだ者は、村へ帰って、隣の家の人に教えてください。
三つ。
「――教えるときは、必ず、自分がどこで間違えたかを、隣に置いてください」
前のほうで、ヤンが、少しだけ、驚いた顔をした。わたしは、その子を見て、続けた。
「正しい形だけを見せると、人は、正しい形を写します。写しただけの人は、外れた場面で、動けません。……間違えた形を隣に置いて初めて、その人の帳になります」
*
式のあと、帳所の帳を、開いた。一年前、いちばん最初の見開きに、線を一本引いた帳だ。左に、借り。右に、返し。
一行目には、赤い親指の印がある。ヨストさん。ブラウ村。いまは、左の欄に、二百三十七の名前が並んでいる。
右の欄には、三百九十四行。
(――返しのほうが、多くなったわ)
一人が三人に教えれば、返しは済み。三人がまた三人ずつ教えたなら、それは利息だ。利息が、元本を超えた。
わたしは、その見開きを、しばらく眺めていた。そして、見返しの、あの欄を開いた。
『作った数』。
秋には、四つ。冬の入り口には、十二。いまは――数えるのを、やめた。
数えられなくなったのだ。この一年で、二百三十七人が学び、そのうち何人の暮らしが立ったかを、わたしは、もう追いきれない。
(――潰した数は、三百二でした)
わたしは、その欄の下に、一行、書き足した。
――数えきれなくなった日。
*
帳を閉じたとき、講堂の隅で、ニコが板を拭いていた。背が、また、伸びている。九つ。声が、少し低くなった。
「――ニコ」
「なに、お姉ちゃん」
「今日は、どうだった」
「すごく、緊張した」
その子は、板を拭く手を止めた。
「でもさ。前のほうにいた、アイヒベルクの子。おいら、知ってるんだ。冬に、あの広場で、いちばん前で聞いてた子」
「――そう」
「あいつ、おいらの絵、いまでも持ってた」
わたしは、その横顔を見た。
(――ああ)
品がない、と言われた紙だ。
「ニコ。あなた、明日から、何を教えるの」
「絵の描き方」
その子は、当たり前のように言った。
「だってさ、あの絵、おいらが描くより、村の人が自分で描いたほうが、いいもん。玉の数、村によって違うし」
わたしは、その言葉を、聞いていた。聞きながら、机の上の、母のそろばんを、見ていた。
一昨年、この子は、これを「玉っころ」と呼んだ。いま、この子は、玉の数が村ごとに違うことを、知っている。
(――この子は、そろそろ)
わたしは、そのそろばんに、手を置いた。
(次の手へ、行きたがっているのね)
第89話、お読みいただきありがとうございます!
一年前、屋根が半分落ちていた納屋に、百の席が並びました。国の布告に、あの一晩で作った回し費えの算定書が、当たり前の顔で入っています。オイゲンが九対三の内訳をわざわざ書いてくるところ、ハーゲンが一年越しに「あれは半分、嘘でございます」と言うところ――この二人は、こういう言い方しかできない人たちです。
次回・第90話「育てる帳」。第三部、最終話です。
一年前の十四枚を、自分の口で数えてみせた若い検分使に、ひやりとした方――★をひとつ、そっと置いていただけると嬉しいです。あと一話、どうかお付き合いください!




