第88話:公開、地代決算
公開の決算を申し入れたのは、こちらからだった。場所は、辺境の広場。立ち会いは、検分使ハーゲン殿。
ブラント商会は、断らなかった。
「――逃げたと言われるのは、商いに障りますので」
ラウレンツ・ブラントは、そう言って、みごとな辞儀をした。
*
四月の半ば。よく晴れた日だった。
広場には、九つの村の者が、ほとんど残らず出てきていた。よその領の代表も、二十を超えている。ホルツの肝煎り。アイヒベルクの女伯の代人。ヴェントのコンラートさん。
正面に、大きな板が、一枚だけ立ててある。
一枚だけだ。
そして、その真ん中に、上から下まで、一本の縦線が引いてある。
(――両建ての帳)
これから、この板の上で、二つの数字が並ぶ。
板の脇に、ヴォルフ様が立っていた。婚礼の日と同じで、剣だけは帯びている。何も言わない。わたしと目が合って、一度だけ、うなずいた。
*
「――まず、左側から」
わたしは、板の左に立った。
「この一年で、この領に入った元手。ブラント商会、二千グルデン」
ざわめきが起きた。二千という数の重さを、この広場の全員が知っている。
「――建ったもの。宿、六軒。倉、四棟。街道脇の店、九軒。水車小屋の建て直し、一つ」
わたしは、その下に、続けて書いた。
「――生まれた働き口。百二十七人ぶん。うち、この領の者、八十一人」
わたしは、そこで、板から離れた。
「間違いはございますか、ブラント様」
「――ございません」
その人は、正直に答えた。
「むしろ、こちらが申し上げるより、丁寧に数えていただきました」
「では、続けます」
わたしは、左側の、いちばん下に書いた。
「――領の四半期の黒字。百四十グルデン。この領の始まって以来の額です」
広場が、少し、明るくなった。誇らしげな顔が、いくつも見える。
(――ええ。これは、誇るべきことです)
一昨年、この土地は、飢えかけていた。いまは、王国のどこの領より、伸びている。
*
「――では、右側です」
わたしは、板の右へ回った。
そして、書いた。
「――麦一俵の値。去年の秋、銀貨八枚。今年の冬、十二枚」
「――豆、四割高。油、三割高」
「――地代。二十三戸、平均で一・五倍」
「――宿代。倍」
誰も、声を出さなかった。いま書いた数字は、この場の全員が、身に覚えのある数字だ。
「――そして」
わたしは、いちばん下に、大きく書いた。
「この領の、村の者、一人あたりの、一年の手取り」
炭を、置く。
「去年より、一割、減っています」
*
ざわめきが、大きくなった。前のほうで、ヴェルナーさんの奥さんが、口を押さえている。
「――一つ、例を挙げます。ご本人の許しは、いただきました」
わたしは、ヴェルナー家の数字を、板の右側に並べた。売った麦、二十グルデン増。豆と油の値上がりで、十二グルデン減。
地代の値上がりで、九グルデン減。差し引き――一グルデン、去年より、薄い。
「豊作でした。売り値も上がりました。それでも、去年より、一グルデン、暮らしが薄いのです」
広場の後ろのほうで、誰かが、大きな声を出した。
「うちも同じだ!」
「うちもだよ!」
声が、いくつも重なった。わたしは、両手を上げて、それを、静めた。
*
「――ブラント様」
わたしは、板の前から、その人を呼んだ。ラウレンツ・ブラントは、広場の正面に、まっすぐ立っていた。逃げも隠れもしない。
「あなたは、法を、破っておられません」
「――はい」
「この一年、わたしは、あなたの商いを、隅から隅まで検めました。買い占めもなさっていません。値も、法外ではありません。取り立ても、荒くありません」
「恐れ入ります」
「地代算定書の四つ目の欄も、堂々とゼロと書かれました。……隠されなかった」
「隠す理由が、ございませんので」
「――そのとおりです」
わたしは、うなずいた。
「あなたの数字は、一つも、間違っていません」
そして、わたしは、板の真ん中に立った。真ん中の、あの一本の縦線の、すぐ横に。
「――ただ」
わたしは、板の左側を、手のひらで示した。二千グルデン。宿六軒。倉四棟。百二十七人の働き口。四半期の黒字、百四十。
「あなたは、この左側しか、書いていらっしゃらなかった」
*
広場が、しん、となった。
「これは、わたしが、一昨年、この領で最初に教えた帳の形です」
わたしは、縦線を、指でなぞった。
「両建ての帳、と申します。左に費え、右に実り。……どちらか片方だけを見て、良いか悪いかを決めてはいけない。それが、この帳のいちばん最初の約束です」
わたしは、右側を示した。麦五割高。豆四割高。地代一・五倍。一人あたり、一割減。
「あなたの帳簿には、右側の欄が、ありません」
「――ございません」
ブラントは、あっさり認めた。
「商人の帳に、そのような欄は、ございませんので」
「ええ。ですから、これは、あなたの落ち度ではありません」
わたしは、はっきり言った。
「――右側の欄を、作らせなかったのが、わたしの落ち度です」
*
その日、わたしが差し出したのは、罰でも、追放でもなかった。一枚の、書き換えた契約だった。
「三つ、お願いいたします」
わたしは、その紙を、広場の全員に見えるように掲げた。
「一つ。地代の値上げは、算定書式で。根拠のない上げは、無効。……これは、もう、お受けいただいています」
「はい」
「二つ。この領の土地と建物の、買い集めの上限。一人の買い手が持てるのは、村ごとの地代の権の、三分の一まで」
ブラントの目が、初めて、鋭くなった。
「――それは、商いを、狭められます」
「狭めます」
わたしは、認めた。
「けれど、あなたは、まだ、二十三戸です。三分の一までなら、あと、伸びる余地があります」
「……なるほど」
「三つ」
わたしは、三本目の指を立てた。
「この領の宿と倉に、村の者が、少しずつ元手を出せる枠を作ってください。一口、五グルデンから。……出した者には、上がりが分けられます」
広場が、ざわめいた。
「――財務官様。それは、うちの取り分が、減りますな」
「減ります」
「なぜ、それを、こちらが飲まねばなりません」
「飲まなくても、結構です」
わたしは、静かに言った。
「ただ、そうしますと、この領で、あなたの宿に泊まる者と、あなたの倉に穀を入れる者は、ずっと、雇われる側のままです。……雇われる側は、この土地に、根を張りません」
*
長い、長い沈黙があった。広場じゅうが、その一人の返答を、待っていた。ラウレンツ・ブラントは、板を、じっと見ていた。
左側と、右側。二千グルデンと、一グルデン。やがて、その人は、帽子を取った。
「――三十年、商いをしてまいりました」
風が、板の紙を、少し鳴らした。
「わたくしの帳簿に、右側の欄があったことは、一度もございません。……そのようなものを見せられたのは、初めてでございます」
その人は、こちらを見た。目は、まだ、笑っていた。けれど、少しだけ、違う笑い方だった。
「――左側のある帳簿は、初めてです」
「――え?」
「わたくしの帳が、右側だったのでございましょう」
その人は、板の左を、指した。
「わたくしから見れば、こちらが、わたくしの実り。そちらが、村の実り。……つまり、この板は、わたくしの帳簿に、左側をつけてくださったのでございます」
そして、深々と、頭を下げた。
「――お受けいたします。三つとも」
*
広場が、割れた。
歓声ではなかった。最初は、ざわめきだった。ざわめきが、少しずつ大きくなって、やがて、拍手になった。
わたしは、板の前で、それを聞いていた。去年の春、御前決算で、王国財務卿が退いたとき、王城の広間は、ずっと静かだった。
いま、この広場は、うるさい。
(――こちらのほうが、いいわ)
板の脇のヴォルフ様は、手を打たなかった。腕を組んだまま、こちらを見て――その顔が、ゆっくりと、ほどけた。
板の右側の、いちばん下。一人あたり、一割減。この数字を、来年の春、書き換える。
それが、来年の、わたしの仕事だ。
両建ての帳で、決着させました。
ブラントは、法も破らず、数字も間違えていません。ですから、詰める道具は、この作品がいちばん最初に持ち出したもの――左と右の両方を書く、というたった一つの約束しかありませんでした。そして最後に、この人は、板の左右を自分の側から読み替えます。「左側のある帳簿は、初めてです」。潰さずに終わる敵は、この第三部で、三人目になりました。
次回・第89話「帳所、開きます」。王都から、一枚、布告が届きます。




