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第87話:値をつけられない側に、立ちます

ブラント商会の穀は、春になっても、戻らなかった。戻らなくても、この領は、冬を越した。


十九台の荷馬車と、二台の遅れてきた荷馬車。西の三領と、北の二村。そして、蔵。


三月の末、わたしは、村ごとの越冬の帳を、締めた。


飢えた者、なし。


麦の値は、三月の半ばから、下がり始めた。買い手の側に、選べる先ができたからだ。


「――財務官様。市の麦、十枚に戻りましたよ」


マルタが、籠を抱えて、報告に来た。


「去年の秋が、八枚でした」


「まだ、二枚高いですね」


「二枚は、我慢しますよ。十二枚のときは、うちの村の三軒が、粟に替えてましたから」


*


ラウレンツ・ブラントが、館に来たのは、四月の初めだった。前ぶれは、なかった。荷馬車は、一台。供は、二人だけ。


「――ご無沙汰いたしました」


その人は、前と同じ椅子に座って、前と同じ姿勢で、頭を下げた。


「冬は、たいへんでございましたな」


「――お聞きになりましたか」


「聞きました。十九台、と」


ブラントは、湯呑みを、両手で包んだ。


「西の三領から、別々の道で、別々の日に。……あれは、どうやってお集めになりました?」


「人に、頼みました」


「どういう人でございましょう」


「――昔、この辺の村へ、取り立てに来た人たちです」


その人の眉が、ほんの少し、動いた。


*


「――なるほど」


しばらくして、ブラントは、そう言った。


「うちの手の者は、村の蔵の中身を、掴めませんでした。市に出ている分しか、見えませんので」


「ええ」


「市に出ていない穀を、どこの誰が抱えているか。……それを知っているのは、昔、それを取り立てに行った者だけ、ということでございますな」


「はい」


「――それは、金では、買えません」


その人は、そう言って、静かに笑った。


「参りました」


*


「ブラント様」


わたしは、そこで、聞いた。


「地代算定書は、書いていただけましたか」


「書きました。全部で、三十一枚」


「四つ目の欄は」


「ゼロと書きました。三十一枚とも」


「――そうですか」


「貼り出されておりますな。うちの若い者が、村の広場で、白い目で見られると申しております」


(――効いているのね)


「ただ」


ブラントは、そこで、言葉を切った。


「白い目で見られましても、こちらの商いは、一つも減っておりません。地代は、そのまま入ります」


「――ええ」


「財務官様。恨みは、値を下げません」


*


そして、この人は、本題を出した。ふところから、一枚の紙を取り出す。上等な、薄い紙だった。


「――これを、お渡しに参りました」


わたしは、それを受け取った。


短い文面だった。


『ブラント商会 総帳付け頭の職


 年 三百グルデン


 王都の店に、部屋一室。ご家族の別居は、ご自由に。


 ご返答は、いつまでも、お待ちいたします』


三百グルデン。


わたしは、その数字を、二度見た。この領の、年の賦課の、四分の三だ。


わたしがいまいただいている財務官の俸給の――十五倍にあたる。


*


「――お怒りでしょうか」


ブラントは、静かに聞いた。


「いいえ」


わたしは、正直に答えた。


「驚いております」


「額に、でございますか」


「――いいえ。値がついたことに」


わたしは、その紙を、机に置いた。


「ブラント様。わたしは、この二年で、いろいろな方に、いろいろなものを言われました。数字をこねる女。華がない。小娘。……値をつけられたのは、二度目です」


「一度目は」


「王国財務院です」


「――ほう」


「あちらは、額を書きませんでした。国のために使え、と」


ブラントは、可笑しそうに、目を細めた。


「わたくしは、商人でございます。国のためとは、申しません。……うちのために、使っていただきたい」


「そちらのほうが、正直です」


「ええ。そして、こちらのほうが、たぶん、高うございます」


*


「――ひと晩、いただけますか」


わたしがそう言うと、この人は、意外そうな顔をした。


「即答なさらぬので」


「ええ」


「――お受けになる目が、あると?」


「いいえ」


わたしは、その紙を、指で押さえた。


「ですが、断るなら、断る理由を、帳につけます」


*


その晩、わたしは、執務室で、一人になった。紙を一枚おろして、真ん中に線を引く。左に費え、右に実り。


左側に、書いていく。


――辺境を離れる。帳所の教壇。読み上げの市。村の九つの帳。ヴォルフ様と、離れて暮らす。


(……ここで、もう、答えは出ているわ)


けれど、わたしは、右側も、きちんと書いた。


――年三百グルデン。王都の店。王国じゅうの商いの帳が、手元に来る。


正直に言えば、いちばん最後の一行は、少しだけ、心が動いた。


王国じゅうの商いの帳。


三十年、誰も検分していない国の帳簿を開いた、あの日の手応え。あれを、もう一度、味わえる場所。


(――そう。この方は、上手いわ)


金では釣れないと知っている。だから、この人は、いちばん最後に、帳を置いた。


*


わたしは、そこから、別の紙を出した。そして、こう書いた。


『値のつかないものの、目録』。


一行目。


――ニコ。


そこで、筆が、止まった。


(――この子に、いくら?)


七つで玉っころを教えてくれとせがみ、八つで四十人の前に立ち、この冬、よその領の広場の石の上に乗った子。


この子の値を、わたしは、書けない。書こうとすると、書いた瞬間に、間違いになる。


二行目。


――マルタ。


三年前、逃げなかった村長。三十年、市で値切ってきた人。「あたしが行くよ」と言った人。


三行目。


――ギード。


先代の代から、この館にいる。結婚式の朝、まだ始まってもいないのに、目を赤くしていた人。


(あの涙に、いくら?)


四行目。


――ヨスト。玉を三つ目で鳴らした人。


五行目。


――ヤン。ただで働く人がいると、次の人もただになる、と言った子。


六行目。


――ゲオルク・キーファー。ぼろぼろの靴で、二十日、歩いた人。


七行目まで書いて、わたしは、筆を置いた。


(――足りないわ)


紙が足りない、という意味ではない。この目録は、いくら書いても、終わらない。


*


翌朝、わたしは、その二枚を持って、広間へ下りた。ラウレンツ・ブラントは、もう、待っていた。


「――ご返答を、伺えますか」


「はい」


わたしは、一枚目の紙――三百グルデンの申し出を、机に置いた。


「お断りします」


「理由を、伺っても?」


「――帳をつけました」


わたしは、二枚目の紙を、その隣に置いた。


『値のつかないものの、目録』。


ブラントは、それを覗き込んで、しばらく、黙って読んでいた。七つの名前。金額の欄は、全部、白い。


「……値が、書いてございませんな」


「書けませんでした」


わたしは、言った。


「ブラント様。わたしの帳には、値のつかないものが、多すぎるのです」


「――そうでございますか」


「ええ。ですから、こちらに残ります」


その人は、その紙を、机に戻した。そして、しばらくして、こう言った。


「財務官様。……値のつかぬものを、帳に載せることは、できませんぞ」


「――ええ。存じています」


わたしは、うなずいた。


「ですから、いま、その書き方を、考えているところです」

引き抜きの申し出が、三度目にして、初めて額を書いてきました。


財務卿は「国のために使え」と言い、この人は「うちのために」と言います。そのうえで、いちばん最後に、王国じゅうの商いの帳を置く。金では釣れない相手だと知っている人の、正しい手です。断るために、エルナは一晩かけて、七行の目録を書きました。金額の欄は、全部、白いままです。


次回・第88話「公開、地代決算」。その白い欄を、大きな紙の左右に、並べます。

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